白 夕雨の日記

柔軟、ヨガ、何となく思っていること。

『心』の世界。

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今回は、前回のブログからの引用で、

無責任極まりない自分の行動の一部を冒頭に持ってきました。

そこから色々書いていきたいと思います!笑。

           ↓↓↓

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『ヨガを始めた当初、

海辺でビギニ姿のねーちゃんがヨガのポーズをキメてる光景を

「カッコいい✨」と思い、それを見上げていた私がいて、、、笑。

そして、そう思う私に、

「それはヨガじゃない!真実じゃない!

悟りを開く修行が本来のヨガだ。」だの、、

「ただのエクササイズだっ!」だのと、

丁寧に教えてくれた偉大なるヨガの先生もいて、、、笑笑。

純粋にかっこいいなぁ✨って思っただけなのに、

それを否定された当初の私はいい気分にはなれませんでした。

 

でも、ヨガを徐々に深めていくと、、、

 

今度は、その先生と同じような感情を抱き、

もっともらしい正論を振りかざしては同じことをほざきながら、

ねーちゃんを見下ろしている自分がいてたのです。笑笑。』

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、、、他者への“憧れ”が“蔑み”に裏返った瞬間です。

 

一つの分野をずっと追いかけていると、

いつの間にか、その培った知識、情報、価値観の持つ存在意義が180度変わることがあります。

 

では、自分はいつから、心の観点を変えたのだろうか、、、?

脳トレゲームにある、

提示された写真画像が徐々に変化していく間違い探しゲームのように、

自分の心さえも、いつ変化したのか?

分からない時がよくある。

 

ヨガに限らず、様々な哲学的教えに、

“自分に正直にあろう。”

、、、なんていうこのセリフは、

私自身もヨガのインストラクターらしく、よく一丁前に講義で話していましたが、

 

、、、だったら、私が私自身に、

はじめて嘘をついたのはいつだったろうか?

自分が自分をはじめて騙したのは、さていつだったか。。。?

 

いつ、正直者から不正直者に変わったか?だなんて、

誰に聞いても知ってるはずがなく、

その答えを持ち合わせているのは、最初から私しかいないのに、

その私自身が、それを自覚できない。

 

なのに、そんな自分が、

ヨガの教えの大切さをもっともらしく説いては、

その素晴らしさに浸りながら、

そう思う自分自身を肯定し、満足さえしている自分がいる。

 

これを、俗に言う

“知ったか”

、、、って言うんだと思います。笑

 

自分は、“知らぬ”間に、

“知ったか”に、

なっていました。

 

いつ、“知ったか”になっていたのか?

そのプロセスすら“知らない”うちに。。。

 

─────“ザ・無知”なわけです。笑笑

 

 

さて、果たして本当に、

正直に生きることが善で、不正直に生きることが悪なのか?

 

“個”というアイデンティティを失いたくないながらも、

“集団”という群れから大きく逸脱することを恐れるジレンマが存在する人間社会の中では、

自他のために自分を偽ることだって必要な時はある。

 

正直に生きることが悪で、不正直に生きることが善。

ということだって普通にあり得るのです。

 

人の数だけ“思い”があり、

他人の確立した“思想”に、自分の絶対の正解を求めるのはナンセンス、、、。

 

それが本当に正しいかだなんて、誰にも証明などできやしない。

 

なのに、その教えの正しさと素晴らしさの証明のために、

奮闘している自分もまたそこにいる。。。

 

そんな矛盾を抱えながら、

それを証明し続けることに、果たして何の意味があるのか?

 

それで、自分は何に報いたいのか?

もしくは、それで、何が報われるというのか?

 

、、、今思えば、

当時の自分はまるで、

ヨガの教えに従順な下僕のようでした。笑。

 

知らない間に、

“正直でなれけばならない。”

という他者の確立した“概念”に支配されていた自分がいてたのです。

 

だから、

 

例えば、

ヨガでできないことを包み隠しながらも、

できる自分を他者の前で演じているインストラクターを、

心のどこかで否定するようになっていました。

 

そうやって“他者”を騙し、“自分”をも騙しながら、

「”他者”のために役に立っていて、“自分”は幸せだ。」

なんて言ったりもしている。

 

そして、その支離滅裂な行為の見返りに、

“自分の居場所の確保”と

“自分の存在価値の認識”

を求めている。

 

『生』への実感とその“証”を無自覚に求めているのです。

 

─────これも、

     人の本質なのだろうか─────。

 

当時、そんな光景を目の当たりにする度に、

不正直者を繰り返し繰り返し心の中で、

そうやって否定していました。

 

そして、それに囚われていた理由なんて一つしかありませんでした。

 

─────私自身がその張本人だったからです。

 

自分のエゴのために他人を騙していたのは私自身であり、

自分のエゴのために他人を騙す人を否定していたのも、

また私自身だったからでした。

 

“自分に正直にあれ。”

という一つの概念から、不正直者を否定する『心』が生まれた私は、

他者を否定した数だけ、等しく自分自身を否定していたのです。

 

そして、その時に気付いたのは、

『心』というやつは、決して否定する対象を選んだりはしない。

嘘つきが他人であろうと、自分であろうと、

そんなの関係ないんです。笑

 

『心』は、その条件を満たした全てのものに、

ただただ作用し反応する非物理的な感覚器官であり、

それ以上でも以下でもない。

自分の『心』だからと言って、

『心』は自分だけを許し、特別視なんかしたりはしないのです。

 

、、、これも『心』の持つ本質の一つなんだと思います。

 

ならば、

こんな簡単なことにすら気付けなかった自分は、

この物理的な世界を通し、

繰り返し繰り返し、今日まで何を見ていたのだろうか?

 

その答えは、、、

とてもシンプルで。。。笑。

 

“できる自分を演じているインストラクター”

という光景を通して私が観ていたのは、

“分かっているつもりを演じていた知ったか”

という自分であり、

その時、

『心』の鏡に映っていたのは、自身への憎悪でした。

 

また、

“自分に正直にあれ。”という、

他者が確立した高潔な思想を、

自分のものさしのように使って他者を測っている、、、

そんな、愚かにも奢っていた私が観ていたのは、

他者に対する優越感ではなく、

それに頼ることで自分の力を保っていた自身の弱さでした。

 

─────つまり、

 

自分の心が囚われていたのは、世界の眩しさでもヨガの高潔な思想でもなかったのです。

 

囚われていたものは、自身に対する憎悪であり、劣等感だったのです。

 

自分が繰り返し観ていたのは、真っ直ぐな事実ではなく、

自分だけは違う!って、

自分に都合の良い現状の解釈から、

自分に都合の良い未来を憶測した、

自分のエゴが激しく曲げた虚実だったのでした。

 

でも、やがて、

“憎悪”や“劣等感”という、

その未処理の感情を自分の心に溜め続けたまま、

それらを原動力に前に進み続けるには、

限界が必ずやってきます。

 

本当の自分を置き去りにしたまま、

毎日繰り返し“知ったか”を演じることには、

いつか必ず疲れてしまうのです。。。笑。

 

だから、私が私自身により正直にいるためには、

まず

「いつから自分を騙していますか?」

と、自分自身に聞いてやることでした。

 

、、、まずは、置き去りにした自分を拾うところから始め直す。

という選択をすることでした。

 

自分を騙すことに慣れてしまった自分いて、

自分に憎悪や劣等感を感じることにも慣れてしまった自分がいて、、

そんな自分を見て見ぬふりをすることにすら慣れてしまった自分がいて、、、笑。

 

こんな感じで、シチュエーションは違っても、

それぞれの記憶が指し示すその本質を掘り下げると、

自分のやってることの選択の連続は、

本当に一緒だな。とも感じます。笑。

本当に、親切なほどに分かりやすい。笑笑。

 

私達は、いつも自分を

繰り返し、繰り返し、繰り返していると思います。

ぐるぐると輪廻の如く、、、延々に。。笑

 

置き去りにしたその日から、

迎えが来るその日まで

自分はその頃のまま、そこに立っている。

 

自分自身がそれに気づき、

違う選択を実際にやってみるまで、

何度だって繰り返し、繰り返される。

 

そうやって、

思考の癖や人格は形成されていく。─────

 

そして、選択の本質とは、

“何を繰り返し、何を繰り返さないか?”

、、、だとも思います。

 

不動の現実を映せる心の在り方を育む方法があるとしたら、

それかな。とも思います。

 

世界を通して、

今日まで自身の心に繰り返し映った感情達と向き合い、

“何を繰り返し、繰り返さないか?”

その選択の連続から得られる自分にしかない、

“自分だけの経験”を大切にする。

ということです。

 

そうすることで、

今日までお借りしてきた他人様のものさしを、

一つずつ返還し、

自然と手放せるようになったら、

その先に、自分だけのオリジナルな個性溢れる不動の軸ができていくんだと思います。

 

それが、自己の“無知”に抗う手段の一つでもあると思います。

 

なので、

今日も繰り返し練習に励みたいと思います💪

 

小さな6畳程の部屋の中で、

練習に夢中になるだけで、

その夢中になっている世界と繋がっている気分を味わえる。

 

今は、この経験こそが、

1番の自分の『生』への実感と“証”となっており、

満足に足る選択のように感じている今日この頃でした。

 

─────というお話でした。

 

 

               、、、終わり。

 

 

今回も、超絶長文を、最後まで読んで頂き、

大変にありがとうございました‼︎

 

ではでは、また次回まで^ ^