白 夕雨の日記

柔軟、ヨガ、何となく思っていること。

個人的な私のお話です。

今日は、私の個人的なお話です。

 


私は、0からヨガやりはじめて、今6年目です。

 

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ヨガ歴3年目で、訳ありで養成講座を担当することになって、

 

それまでは気にしてなかった、

自分の"肩書き“みたいなのを、はじめて気にした瞬間でした。

"インストラクター”ではなく、、"指導者”。。

なんて、紹介されるのです。笑。

「たった3年で、どう人を導くねん!?」

って、内心思いながら、

「いや、これはチャンスだ!

やるしかない!」

と、自分の中にジレンマを抱えながら、

養成講座をするって選択しました。

 


やってて最初に思ったことは、人を導くって、、、難しい。

だって、まだ自分自身でさえ導けていないのに。。

ちなみに、この思いは、今でも変わってません。笑。

道を指し示し、そして導く。。。

、、、なんてのは、

人生30年くらいしか生きていない自分が果たせる役割りとしては、重すぎました。

 


でも、その未熟さは、”指導者”という肩書きをもらった瞬間に、

恥ずかしさに変わって、、、

自分の中の意地とゆうか、

プライドが許せなくなったんです。

そのプライドは、守るべき誇り高きものではなく、

自分の未熟さを知られたくない。

バカにされたくない。

周りに認められたい。。、

、、、というクソガキみたいなクソなエゴでした。笑。

 


、、それなら、自分が納得いくまでその仕事を受けなければいい。

まずは、自分を認めてやれるまで鍛錬し続ければいい。

、、て、その時思うことができたなら、

今違った未来になっただろうな。。。

、、、とも思います。

 


でも、自分は、そんなできた人間ではありませんでした。。。

 

人は、何かを決断する時、

自分の意志で選択しているように見えて、

大半は、周りの空気やその環境に影響されたり、

強制されて選択させられていることがほとんどだと思います。

 

本当の意味で、自分の自由意志で選択している人ってゆうのは、

今それを選択しやっていることに対して、

いちいち理由づけを必要としないし、

「ただやりたいから。」

、、ってくらいにしか思っていない。

気持ちいいくらいにめっちゃシンプルです。笑

 

理由づけがないとできない場合は、

自分以外の他人の意志や価値観が

必ず自分の中に存在していることになるんです。

 

“利益のために、だからやっている。”

“家族を養うために、だからやっている。”

“会社のため”、、、etc...

ヨガやってる人とかだったら、、、

“健康のため。”とか、“ダイエットのため”とか、、、

さらには、

それで何かに感化されたら、

今度は、“自分の精神成長のために。”

とか、“学びを深めるために。。”

“周りの人々のために。。。”とか、、

 

または、

“自分の居場所を確保するために。”

なんて理由づけもどんどんプラスされていく。

まだ消化できてもいないのに、

また足しにいく。。

 

、、、もう背負いきれなくない??

ってくらいに見事に足していく。笑。

 

 

何かのためにでもじゃないと、やってらんないって感じな具合に、、、

理由をつけて、自分を奮い立たせる。。。

、、、はい、私自身がハマってたことです。笑。

地に足がついてない典型的なパターンというやつですね。笑笑。

もう、それくらい重りを足枷せにしないと、

養成講座やり始めた当時は、

マジで地に足がつけなかったんだと思います!笑。

 


でも、もし、自分しかいなくて、

環境によるしがらみがなかったら、、、

 

今もそれをやっているだろうか?

 

自分しかいない環境ならば、

自分の精神性の成長なんて、いちいち気にするだろうか?

学びを深めなければ!!なんて意気込むだろうか?

人様のために!!なんて思うだろうか?

 

人それぞれ価値観は違うので、何とも言えないですが、、、。

 


多分、それらは、周りの人や環境と比べない限り発生しない思いの一種なはずです。

 


自分のためだと思ってやってることだって、案外、

それは、周りの価値観に感化されて生まれたものがほとんどである証しそのものだったりする。

 


そして、そう思っている自分を、本当の自分だと思い、

自分にそう言い聞かせては、

自分自身に嘘を塗り重ねていく。。。

 

時には、無理に自分を正当化し、

その都合のいい正義心を振り飾す。。。


、、、そうやって、

他人の本質を自分の本質の上に上書きした自分を、

本来の自分だと勘違いしてしまう。

 


どれが自分のもので、どれが他人様から仕入れてきたもなのか?

長いこと整理してないと、

ホント自分でも見事にわからなくなる。笑。

 


このように、

人間のような複雑な知能を持った生き物は、

本能によって肉体が維持される以外に、

生きる意味を見い出すための依存先が必要なのです。

 


ただ、他から仕入れてきたものは、

生きる手段を与えてくれる有意義なツールであり、

それ以上でも以下でもない。

 


依存先が家族や好きな人でもいいし、

趣味でも仕事でもボランティアでも何でもいいんです。

 

自己犠牲だって、簡単にできることではなく、とても素晴らしい。

、、、が、

それは、他から仕入れてきたものなのか?

それとも純然たる自分のものなのか?

その識別は重要だと思います。

 

でなければ、

他から仕入れてきたものに純然たる自分が振り回され続けるためだけに、

エネルギーを全て消費しかねないからです。

 

私個人としては、

たった一つでいいから、

自分の自由意志のみで構成されたものを、

ないがしろにはしないほうがいいと思いますし、

 

それがまだ見つかっていないなら、

それを見つけるためにエネルギーを先に使ったほうが、

たとえ同じ結果だったとしても、

魂が味わう満足度は違ってくると思います。

 

それは、

“自分の魂とか本質とかは、

自分で満たしたほうがなんかいい!。”

というエゴというか、、、

概念のようなものが、

私の中に巣食っているからなので(笑)、、、

 

自分の本質に対して持ってる概念が真逆の人もいるだろうし、

そこは人それぞれ違うので、、、

 

、、やっぱり、人それぞれですね。笑笑。


私の場合にたとえたら、

私の今、未来へ向けて実現したくてやっていることは、

自分の身体を自分の思い描く通りに動かしたい。

、、、いわば、“意志と行動の調和。”

みたいな感じです。

 

あとは、、、

やっぱり自分の肉体の柔軟力の可能性の限界値を延々と広げ続けて、

その領域でしか味わえない思いとか感情とか、

肉体の感覚を味わってみたい。

、、てゆう好奇心のような、

探究心のような、、

それが一番にあります。

 

あっ!もちろん、

この思いも、環境や他の価値観から与えられて、

結果、自分もその領域にいってみたい!

と突き動かされています。

 

、、、そんな感じで、

多分、環境や他人によって与えられた価値観や、

それによる理由づけとかというものは、

自分の純粋な好奇心を引き出すための布石とゆうか、

素材のようなもの。。

ただそれだけ。でいいんだと思います。

 

自分の場合、その限界値を超えるためなら、

ヨガもやりますし、思いついたトレーニング方法も、

めっちゃ痛いストレッチ(笑)も、何でもやりますし、

ゴールがそもそもないので、

自分が満足して飽きるまではこれからもやり続けてると思います。

 

、、そして、今日地球が終わるとしても、

多分やっていると思います。笑。

 

 

 

、、、ということで、

今一度、選択と行動の中に、

どれくらいの割合で、

“自分が何に囚われていてるのか?”

または、

“どれくらい自分の自由意志がその中に汲み込まれているのか?”

 

問うのも面白い発見があるかもしれない。。

、、、というお話でした。

 

 

これ以上書いたら、長くなりすぎるので、笑。

養成担当した後のお話は、

また次回書きたいと思います^ ^

 

ではでは、また次回まで(^^)