白 夕雨の日記

頭の中の妄想日記。とヨガのこと。

原点に繋ぐ、ということ。

私達は何か行為をする時、そこには、必ず思いが存在します。

「〜をしたい。」という思いや願望は行動を生みます。

当たり前すぎることですが、それが今の人間社会を形作っています。

どんなものも遡れば、はじめは、形なき一つの思いに帰している。

 

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だから、ヨガも最初にあったのは、

呼吸法や、アーサナ・流派などの形を有したものではなく、

形無きたった一つの思いであったはずです。

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    「より良い世界に」─────

という一つの思いからはそれに伴う行動が生まれます。

その行動は、やがて人々の目に留まり、しだいに共感者を得ていく。

1人の人間が生んだ形なき思いに集う共感者。”

という光景は、師と弟子の在り方に近いのかもしれません。

そして、長い時間を経て大きな思想へと昇華した思いは、

“教え”となって沢山の人へ広まっていくと、

必然的に統率が必要とされるようになります。

“定め”や“戒律”などの規律体系の出来上がりです。

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たったひとつの思いから生まれた行為が、

ここまで大きな体系になるのに、一体どれだけの時間と労力を有し、

どれだけ、同じ工程を繰り返し行ったのでしょうか、、、?

もちろん、ヨガもその過程を辿った知識体系のうちのひとつです。

まさにチリツモというやつですね。

 

────塵も積もれば山となる。──── 

 

塵=小さな思いから生まれた一つ一つの行為。

その塵が数えきれないほど繰り返されることで、

ひとつの知識体系という“山”がはじめて出来上がります。

今日、私達が学んでいる様々な既存の学問には、

こんな風に、歴史の本質そのものとも言える見えない背景が必ず存在します。

 

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なのでその物事の本質に触れたくば、

その始まりのきっかけとなった

“最初にあった一つの思いは何だったのだろうか?”と、

この問いに自ら気付き、ぶつかって、思いを馳せることができて、

はじめて本質と向き合う準備が出来たことになるのだと思います。

文字通り、原点に帰るということです。

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相手を理解するためには、まず相手の立場に立ってみないことには、わかりっこない。

というのと同じですね。

自分以外の者の立場に立つことは、固定概念という枠組みを壊し、

客観的に物事を捉えられる観察眼と、視野の広さを提供してくれます。

物事の本質である全体像を見るためには、

視野の広さを持つことはどうしても必要最低条件となりますから。

ヨガでも、「群盲象をなでる」という寓話になぞらえて

本質を知る方法を享受している資格スクールは多いのではないでしょうか。

 

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物事の一部分だけを理解して、全て理解したと

錯覚してしまうことほど怖いものはないです。

かつての自分もこれでした。

既成の概念に囚われ、自分の作った枠組みと思い込みの中に生きていた時の自分です。

そこから抜け出し、

「そもそものはじまりとなった思いは、果たして何だったのだろうか?」

というこの問いへの気付きを可能にしてくれたのが、

同じことを幾度となく“繰り返す”という行為でした。

 

どんな達人であれ、同じ工程を繰り返し行うという作業は決して怠りません。 

それは、“繰り返す”という行為そのものが、“基礎”の本質であるからだと思います。

幾度となく同じ工程を繰り返す。”

という行為は、

この世界に“基礎”という概念を確立させた原点と言えるでしょう。

 

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“基礎”とは、“繰り返し行う。”ことを指し示します。

逆に言い換えれば、どんなに簡単に出来てしまうことでも、

繰り返し行わない時点で、たとえ出来ていたとしても、

それは“基礎”とは言わないのです。

 

では、何故基礎がそんなに大切なのでしょうか、、、?

完璧に出来ていることでも、何故、繰り返し行うことを、

達人であればあるほどに辞めないのでしょうか?

それは、“繰り返す。”という行為が、

心に手綱を引く方法であるからです。

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「自身の心に手綱を引き、コントロールしましょう。」

↑これもよく聞くヨガの教えの一つですよね。

分かりやすく言いかえると、

「=鍛錬で身に付けた力をコントロールするのは、心の役割である」

ということです。

知識や情報、スキルには、力があります。

どんな力かというと、、、

それは、良い悪いを問わず、“人の心を変える力”です。

知識や情報は、持っているというだけで人々からもてはやされ、

脚光を浴びることができます。

難易度の高いスキルを習得したならば、さらに人々からの賞賛を受ける。

それは、他人に自分の存在意義が認められたという喜びや達成感、

さらなる高みへ挑む勇気を与えてくれると同時に、

その力に溺れ、奢り、優越感という快楽に支配されるリスクを背負うことにもなります。

 

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最初は、ただ“好き”という純粋な思いではじめたことでも、

いつのまにか、富と引き換えでなければ、

たとえどんなに好きなことだとしてもやらなくなってしまう。

そうして気が付けば、成し遂げたいと思う夢とは一番遠い場所にいた、、、。

なんていうのがいい例ですよね。

 

このように、光あるところには必ず闇が存在します。

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奢りや傲慢さ、慢心、過信といったものは、

脚光と賞賛の眩ゆいきらびやかな世界の裏に必ずある闇の側面です。

これらは因果関係にあり、切っても切り離せるものではありません。

 

─────力にはそれ相応の責任が伴う。─────

 

そして、その力の制御は、心でしかできません。

ヨガも、師が弟子にアーサナを与える時の基準は、

アーサナの出来栄えよりも、

弟子がそれを制御できる心の準備ができているかどうかで、

与えるか否かが決まるものだと思います。

だから、心の鍛錬はどうしたって必要になるのです。

 

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その心を鍛錬する方法が、

同じことを“繰り返す”という行いであり、=“基礎”を怠らないことなのです。

幾度となく初心に帰るという基礎は、

暴走しそうになる力を原点に繋ぐことができる。

それが手綱を引くということですよね。

そして、力を繋げることができる場所はそもそも原点にしか存在しないものでもあります。

なので、得た知識や情報、スキルなどの力をどこに繋げばいいのか分からなくなったら、

自分の始まりのきっかけとなった思いは何だったのか?

を思い起こしてみましょう。

そこが、得た力を唯一繋げられる場所の在り処であるはずですから。

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ヨガは、この世にたくさん存在する“始まりへ帰るための方法論”の一つです。

だから、ゴールはあくまで“=我に帰る。”ということを忘れないようにしましょう^ ^