白 夕雨の日記

頭の中の妄想日記。とヨガのこと。

心と身体は、人と人。

光と影は惹かれ合います。

互いにいるだけで引き立てあえるからです。

どんなに眩ゆく光を放っていても、影がなければ、

光は自分が光であることにすら気付けません。

 

f:id:yuu0525u:20190415173447j:image

 

“光は光のままに、影は影のままに。”

互いにただそこにいるだけで、自分の存在が定義される関係、、、

とてもベストな関係の在り方の一つですよね。

 

では、この関係が人と人の場合だったらどんな感じなのでしょうか?

 

それは、

“あなたはあなたのままに。わたしはわたしのままに。”

ということになります。

もっと分かりやすく言い換えると、

= “あなたは、あなたのままでいてね。

わたしは、わたしのままでいますから。”

という関係。

お互いに、ありのままの自分でいることをもっとも楽で心地良いと感じる関係性。

 

f:id:yuu0525u:20190415163731j:image

 

そこには、相手の在り方の否定や、自分の一方的な価値観の押し付けもない。

ただ、互いのそのままの全てを尊重し、認め合える関係。

これが、家族や恋人、友人や仲間に関係なく、

人と人の繋がり方のベストな形なのでしょう。

そして、ありのままの自分で生きている人ほど、

相手のそのままを受け入れられるその器も大きいものです。

 

でも、そんな簡単に割り切れるほど、人は強くはない、

のもまた事実です。

自分の立場を守るためなら、相手を攻めることだってしてしまう。

自分の利を得るためなら、相手を欺くことだってする。

 

f:id:yuu0525u:20190415164000j:image

 

特に、競争社会に携わっていたら、いつのまにか、

自分に利や得になることが正義で、不利や損失は悪。

という価値観に自分の選択の全てを支配されてしまう人も珍しくはないと思います。

自分の人生を生きる主導権を手放した瞬間ですね。

 

─────人はそんなに強くはない。

 

たとえそれが間違いとわかっていても止まらない自分がいて、

今やっていることが、本当のやりたかったこととは

真逆だと分かっていても辞められない自分もまたそこにいる。

それも人間の一面です。

 

f:id:yuu0525u:20190415164312j:image

自分もそうでした。

受け入れ難い事実の前では、

自分がこうも周りが見えなくなってしまうものなのか、、、⁈と

思うほどバカになる時もある。

 

そして、己の器の小ささと弱さを目の当たりにして、

やり場のない怒りだけが込み上げてくる。

どこにぶつけていいか分からない感情の蓄積はやがて痛みを生み、

その痛みをもたらしたのは他人ではなく、

結局自分であると悟った時には、もう手遅れで、

自分のバカさにただ悔いることしかできない。。。

 

f:id:yuu0525u:20190415164926j:image

 

大なり小なりではありますが、

そんな思いを人生で一度は経験している人は多いのではないでしょうか。

 

どんな世界に生きていても、

自分の心が安らぐ場所を求めるのは人の本能のようなものだと思います。

たとえ、それが相手を否定したり、傷付けることになったとしても、

人は、自分の居場所が無いことには耐えられない。

 

f:id:yuu0525u:20190415165543j:image

 

生きてる間は、自分の存在が定義される居場所が必要なのです。

だから、相手を否定することによって自分を肯定し、その中に生きる。

というのも、自分の居場所を確保するための方法の一つなのです。

 

中には、そうやって他者の否定の上に作り上げた自分の世界観を、

“理想の世界”だと錯覚する人もいるでしょう。

外から見たその世界がまるで、

鍵のかかっていない小さな鳥籠であることには、

本人は滅多に気付かないものですから。

 

f:id:yuu0525u:20190415170607g:image

 

でも、他者の犠牲の上に築かれた個人の平安など存在するでしょうか?

犠牲となった側からしたら、相手が平和であるだけで、

それが彼らにとっては、暴力そのものであるはずです。

これでは、“平安”という価値観そのものが破綻してしまっていますよね。

 

今このブログを読んで下さっている方の中にも、

過去に、相手の居場所を奪った経験を持つの人もいるだろうし、

また、奪われたことがある人もいると思います。

もちろん、両方経験した人もいるとは思いますが、

どちらにせよ、、、

奪った側も奪われた側も、

痛みを背負うことには変わりはなかったはずです。

 

f:id:yuu0525u:20190415172124j:image

 

そうやって蓄積された痛みは、人の身体をいとも簡単に病の中へと引きづり下ろす。

怒りや憎しみは、病に犯されていく心の痛みを知らせるための道具にしか過ぎません。

 

人の「身体」はその対である「心」に呼応するように出来ていますから。

だから、ヨガでも、はじめに、

「身体の原因は心に探すものであり、またその逆も然り。」

と、ちゃんと教わります。

心の声を否定した身体の鍛錬など、暴力でしかない。

 

f:id:yuu0525u:20190415171256j:image

 

「心」と「身体」。

互いの声を否定することなく尊重する。

それが心と身体の繋ぎ方です。

はじめにあった、

“あなたは、あなたのままでいてね。

わたしは、わたしのままでいますから。”

という関係と全く一緒ですよね。

心身を繋ぐことは、人と人の繋ぎ方をも同時に教えてくれるのです。

 

f:id:yuu0525u:20190415171826j:image

 

なので、もし、自分の作った鳥籠に入ってるかも。

と思い当たる節がある人は、まず一歩外に出てみましょう^ ^

狭い鳥籠の中では、器も育たない。

出る方法は簡単です。

“存在の否定”を辞めることです。

 

もちろん、一歩外に出た瞬間に仕返しに合うかもしれないし、

痛い思いをするかもしれません。

その痛みを知ったところで、強くなれるわけでもない。

痛みは乗り越えることでしか強くはなりませんが、

他人の痛みを分かち合う優しさを提供してくれます。

そして、それが自分の人生の主導権を握るということであり、

“生きている証としての実感”そのものなのです。

 

f:id:yuu0525u:20190415171453j:image

 

檻の中にずっといるよりかは、面白いことがきっと待っていると思います^ ^