白 夕雨の日記

頭の中の妄想日記。とヨガのこと。

“個”とは何か?

この世界は、生命として存在することに目的や理由を持たない世界と言えます。

自然と共に在る動物を見ても、

皆が等しくそこに在るがままの姿で存在しており、

今この瞬間に自分のベストをただ尽くしています。

そこに生きる目的や理由は存在しません。

 

f:id:yuu0525u:20190318130008j:image

 

そんな自然の摂理の中で、

生きる目的や理由を持ちたいと思うのは、

私達人間にだけある特殊な概念の一つなのかもしれません。

生きる目的や理由は“個”として存在することに価値を与えてくれるからです。

しかし、目的や理由を持つが故に、そこには利害が生まれます。

その人々の損得感情は、争いを生み、

          やがて競争社会へと発展していく。──────

 

f:id:yuu0525u:20190318130832j:image

 

ヨガ業界だって、今や立派な競争社会になっていますよね。

それが良いことなのか悪いことなのかは別にして、

競争社会とは、争い事が好きなどこかの知らない誰かが

創ったものではなく、私達一人一人の損得感情が

産んだ環境であることは一目瞭然と言えます。

 

、、、一方、動物達はどうでしょうか?

f:id:yuu0525u:20190318140920j:image

彼らは無益な争いはしません。

目的や理由を持たないからです。

また、自分を他と比べたりもしません。

他人のものさしで自分の存在価値を測るという概念がないからです。

目的や理由を持たない彼らにとって、過去と未来は“無”に等しく、

逆に、今この一瞬一瞬の連続が常に自分にとっての全てとなります。

そこに迷いはなく、自分の持てる限りの最善を尽くしながら、“個”を謳歌している…。

f:id:yuu0525u:20190318125938j:image

まさに、迷いなき絶対の“個”そのものと言えます。

ここ地球上で“生きる”とは、

本来はそんな感じだったんだろうな〜。と思ったりもします。

唯一無二である「自分」を謳歌するための体験の場。

それが私達の住むこの星の持つ役割のようなものなのでしょう。

 

f:id:yuu0525u:20190318131201j:image

 

さて、

今まさしく、全ての人々がここで等しく“個”を体験しているわけですが、

その唯一無二の自分とは、

果たしてどんな自分のことを指すのでしょうか?

 

   ──────  “私は誰なのか?”  ─────

 

ヨガでもよく問われるこの問いは、哲学の原点に至る問いでもあります。

“個”の在り方とは、、、?

“個”の代名詞である名前を変えても、環境が変わっても、自分が自分で在ることには変わりありません。

f:id:yuu0525u:20190318131854j:image

肉体は自分という“個”を入れている器であり、

感情はこの世界をよりリアリティに味わうための装備。

「物理的な肉体」と「非物理的な感情」

双方あってはじめてこの世界を謳歌できるが、

いずれも、

────   “=自分”  とは成り難い。────

 

では、

何かをやりたい、これが欲しい、あの夢を叶えたい。

と言った、自分の肉体を生かし、

“個”を突き動かしているその内なる原動力は一体どこからやってくるのでしょうか?

f:id:yuu0525u:20190318143148j:image

そのエネルギーは、味も音もしませんし、見ることもできませんが、

確かにそこに在ることを、私達は毎日当たり前のように実感し続けています。

この世界を体験するのに必要不可欠な、

自分を突き動かす純粋なエネルギーの源。

それがなければ、ヨガをやりたくてもできないどころか、動くことも、まばたきすらもできない…。

それでは、屍そのものですよね。

ヨガ用語では、

そのエネルギーをプルシャと言ったりしますが、

他にも色んな名前によって表現されています。

精神エネルギーとか魂とか神とか。。。etc...笑。

 

f:id:yuu0525u:20190318143643j:image

まぁ、どれでもいいわけですが(笑)、

重要なのはそのエネルギーは自分のものであって、

そこに他人のものは存在しえないということです。

ここは、

─── 果たして、自分には何ができるのか? ───

という、その自由な可能性の限りを探求し尽くす場です。

移り変わりゆく世界のど真ん中に鎮座し、体験しているのは

「自己」であり、他人ではありません。

でも、社会に順応していく結果の1つに、

どこかの知らない他人の作ったルールや知識、価値観といったものを、

自分のど真ん中において生きている人々がいるのもまた事実です。

f:id:yuu0525u:20190318145108j:image

そのような生き方は、

自分が持っていた自由な可能性の限りを閉ざす生き方でもあります。

 

ここで、1つ例に挙げてみたいと思います。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

絵を描くことが好きなA君がいました。

ある日絵を描いていたら、先生に、

「みんなもう片付けてるんだから、A君も早く片付けなさい!」と怒られました。

その先生の中には、

“早く片付けられる子が良い子で、片付けられない子は悪い子。”

という価値観があったとしましょう。

もしここでA君が、絵を描くことをやめてしまったら、

その価値観は、

彼の中の才能を1つ掻き消す結果を招く可能性を秘めていることになります。

 

f:id:yuu0525u:20190318134148j:image

 

“個”の在り方を表現する術を1つ見失った瞬間ですね。

そして、いつかA君が大人になって子供ができた時、

今度は自分の子供にもその価値観を押し付けるかもしれない…。

その通りに従う自分の子を見て、

“自分の生き方は間違いではなかった。”と、

自己を無理矢理肯定することで、満足しようとするかもしれません。

これも、些細な行動がもたらす悲しい結果の1つなのです。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

“周りが片付けてるから自分も片付けなければならない。”

“周りも努力しているのだから自分も努力しなければならない。”

↑他人の作ったルール上を生きる人に見られる思考の傾向です。

…まるでロボットのようですよね。

当たり前ですが、人間はロボットではありません。

そうやって、他人の価値観に群れながら生きることは、

果たして自分にとってどれくらい重要なことなのでしょうか?

少なくとも優先順位の1番には来ないことだけは確かです。

その先には「自己を見失う。」という結果以外、

何も残らないでしょう。

f:id:yuu0525u:20190318153820j:image

 

そして、他人から植え付けられた価値観というものは、

他人に対して使うものです。

そこから、価値観の押し付けや、他と比べる。という行為が生まれます。

 

逆に、

自分の本来持っていた自由な可能性や価値観は他人のためには使いません。

自分の好奇心はいつでも自己完結型であるはずです。

他人は他人。自分は自分。

↑とてもシンプルですよね。

もし、私達一人一人が

みんな自分が本来持っていた自由な価値観でこの世界を生きたなら、

比べることなんて忘れてしまうでしょう^ ^

f:id:yuu0525u:20190318153854j:image

何故なら、

たとえ同じことがそれぞれに起こったとしても、

自分の自由な価値観で推し測るその出来事は、

みんな違ったオリジナルの体験となるからです。

だから、比べる必要がそもそもないのです。

その状態こそが、

唯一無二の絶対の自分なのだと思います。

f:id:yuu0525u:20190318160825j:image

しかし、誰でも、潜在意識に、

他人の価値観や思想は埋もれているものです。

ヨガでは瞑想を使って、そういった潜在意識の中から、

どれが自分の価値観でどれが他人のものなのか?を

識別する作業を行ったりもします。

他人のものと分かったやつは必要がなくなったら捨てればいい。

そうやって取捨選択した結果、最後に残るのは、

やはり、最初にあった好奇心溢れる迷いなき絶対の“個”なのです。

 

「再び自己と出会い、繋ぐ。」

↑ヨガスクールでよく聞くこのポピュラーな一節は、

それを体現しています。

f:id:yuu0525u:20190318135708j:image

 

なので、もし何気ない日常の中で、他人と比べていることがあったなら、

自分は、本当は一体、何と何を比べているのか…?

、、、冷静に考えてみることをおススメします。

きっとそれは、潜在意識の中にある、

自分の価値観と他人の価値観がちょうどせめぎ合いをしている瞬間だから。笑。

 

“比較”とは、

自分の“個”の在り方を知る好機となり得る“気付き”

でしかありません。

そこに劣等感も優越感もありません。

自分が本当に好きでやっていることは、

決して他の誰かよりも優位に立ちたくてやっているわけではないはずだからです。

 

f:id:yuu0525u:20190318140427j:image

 

そうなったら、競争社会の先にある、

ただ、在るがままに

“個”を謳歌する“自由社会”がやってくるのでしょう。