白 夕雨の日記

頭の中の妄想日記。とヨガのこと。

現実と幻。

今日は、“現実”と“幻”の世界について書きたいと思います^ ^

 

ヨガ哲学でも、

私達が生きているこの世界は“幻”(=マーヤ)である。

という定義から全てが始まっています。

 

現実と幻の境界線をどう定めるか?など、

人の持つ思想によって違うものですが、

その境界線の定め方の一つを、今日はお話ししたいと思います^ ^

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、、、ということで、

早速、今回は最初から少し小難しい話になっちゃいますが、

私達人間が、この世の事象を理解したり、言葉に置き換えるには、

その事柄を分け示す枠組みが必要となります。

それが“境界線”となります。

でも、その境界線という狭間は、観察すればするほどに、

実に曖昧なものでもあったりします。

 

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例えば、、、

正義と悪の境界線、

本音と建前の境界線、

自分と他人の境界線…etc.

 

正義と悪の線引きは、守りたいものによって変わるし、

言った言葉の一つ一つが建前なのか?本音なのか?

再確認すると、言った本人でもどちらのていで言ったかだなんて、

さらに曖昧だったりするものです。笑。

もちろん、自分と他人は違うものですが、

“共感”という感覚は、その境界線ですら曖昧にさせる。

限りなく黒に近い白と、限りなく白に近い黒の境界線など、

もはや線引きのしようがない。。。

 

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このように私達人間が、その物事を認識するために線引きした境界線は、

とても曖昧で未確実なものの一つで、

本当はあってないようなものでもあります。

 

でも、自分が、自分に線引きした枠組みの境界線を認識し観察することは、

自分が見ている世界のどこからどこまでが現実、もしくは幻なのか? 

その答えを提示してくれますし、

また、人の精神とは、

その自分が作った境界線の中から外に出ることで、

はじめて成長をするものだとも思います。

 

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自分の作った“限界”という境界線を超えること

それが、人の成長です。

現実という世界は、その境界線の外のこと指し示し、

また、とは、その境界線の中のことを言うのではないでしょうか。

 

何故なら、私達人間は、

誰しもが得た知識や情報、または自分の作った枠組みや経験に頼り、

それらに縛られて生きています。

そして、それを“現実”と呼んで疑わない、、、。

 

でも、果たして、本当にそれは“現実”と言えるのでしょうか?

人の心は見たいものを見ますし、思いたいことを思います。

不都合な現実の前では、都合のいい解釈で事実をすり替えたくもなるし、

あるいは、それに蓋をしたくもなるものです。

そうやってすり替えられた世界を、幻の世界と言いますし、

あるいは人の作った“エゴの世界”とも言うのでしょう。

 

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それをヨガのあるあるに例えて言うなら、、、

練習不足という現実を、練習以外の方法にすり替え補うことは、

幻でしかありませんよね。

練習不足は練習することでしか現実は変えられません。

 

カッコいい応用アーサナを可能にするための基礎練習、、

という地味〜な現実だって、やはり基礎を練習することでしか、

それは可能にはならないのです。

 

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もちろん、どんなものも基礎練習ほど地味なものはなければ、

面白くないと感じるものもないのかもしれません。

 

インスタ映えだって、、、

                            、、、  もちろんしません。。。(笑)。

 

でも、そもそも基礎はそのためのものではないことは、誰にだってわかる。

 

本来、地味な作業を淡々と繰り返す基礎練習とは、

=心を空っぽにするための作業であり、

                             無心になるための準備そのもの。

、、、であるはずですよね。

 

後に待ち受ける応用アーサナや新しいことを習得するための空のスペースは、

そうやって自分で作り、掴みとっていくものなのです。

 

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だから、 付け焼き刃のアーサナほど脆いものはなく、

そして、それは同時に、自分の心の脆さの象徴そのものとなる。

 

このように、自分の心に映っている世界が現実なのか?

もしくはすり替えられた幻なのか?は、

“心”の器である自分の“身体”の示す行動で分かるものです。

なので、何かにすり替えた瞬間に、

心に移る世界は全て幻と化することを、忘れないようにしましょう^ ^

 

もちろん、違うものにすり替えたり、

目の前の現実から逃げることはダメなことではありません。

何故なら、心とは、そもそも揺れ動くものです。

だから、現実で痛い思いをして、幻の中に揺れ動くことは、

しごく自然なことで、決しては悪いことではありません。

大切なのは、

痛みのない幻の世界は人を成長させやしない。

ということを知ることです。

 

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私達は、

自分の作った既成の枠組みや“理想”という小さな幻の世界と、

その外側に広がる“今”という大きな現実の世界の両方を行き来することで、

少しずつ自分の作った枠組みを押し広げて、

成長をする生き物です。

 

理想の世界こそ広く、

現実は窮屈なものだと思う人も中にはいるかもしれませんが、

実際は逆で、

人の認識の中に収まることのできる理想郷ほど小さいものはなく、

現実というこの宇宙ほど広いものはないのが事実です。

 

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そして、そうやって、一つのことを突き詰めながら成長をしていくと、

いつか必ず矛盾点や壁に出会います。

その“矛盾”と“限界”こそが、

幻の世界の中にしか存在しないものの象徴ではありますが、

それは同時に、自分の作った“限界”の外に出るタイミングでもあることを示唆しています。

“現実”という私達の生きるこの壮大な宇宙には、

限界や矛盾などといったものは、どこにも存在はしませんから。

 

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人の魂は、束縛を嫌うものです。

枠組みの中に押し込めようとするほどに、その枠組みの外に出たくなる。

外の世界には、その先には果たして、一体何があるのだろうか。。。

という思いは、自分の意思とは関係なく、湧いてくる。

それを好奇心と言います。

そして、その好奇心こそが、人の成長の糧になる素粒子のようなものだと思います。

 

なので、もし、

歳を重ねていくほどに、逆に好奇心は減っていってるなぁ〜。

という矛盾を感じたら、このお話を思い起こしてみてください^ ^

もしかしたら、何かのヒントになるかもしれません^_^

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原点に繋ぐ、ということ。

私達は何か行為をする時、そこには、必ず思いが存在します。

「〜をしたい。」という思いや願望は行動を生みます。

当たり前すぎることですが、それが今の人間社会を形作っています。

どんなものも遡れば、はじめは、形なき一つの思いに帰している。

 

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だから、ヨガも最初にあったのは、

呼吸法や、アーサナ・流派などの形を有したものではなく、

形無きたった一つの思いであったはずです。

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    「より良い世界に」─────

という一つの思いからはそれに伴う行動が生まれます。

その行動は、やがて人々の目に留まり、しだいに共感者を得ていく。

1人の人間が生んだ形なき思いに集う共感者。”

という光景は、師と弟子の在り方に近いのかもしれません。

そして、長い時間を経て大きな思想へと昇華した思いは、

“教え”となって沢山の人へ広まっていくと、

必然的に統率が必要とされるようになります。

“定め”や“戒律”などの規律体系の出来上がりです。

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たったひとつの思いから生まれた行為が、

ここまで大きな体系になるのに、一体どれだけの時間と労力を有し、

どれだけ、同じ工程を繰り返し行ったのでしょうか、、、?

もちろん、ヨガもその過程を辿った知識体系のうちのひとつです。

まさにチリツモというやつですね。

 

────塵も積もれば山となる。──── 

 

塵=小さな思いから生まれた一つ一つの行為。

その塵が数えきれないほど繰り返されることで、

ひとつの知識体系という“山”がはじめて出来上がります。

今日、私達が学んでいる様々な既存の学問には、

こんな風に、歴史の本質そのものとも言える見えない背景が必ず存在します。

 

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なのでその物事の本質に触れたくば、

その始まりのきっかけとなった

“最初にあった一つの思いは何だったのだろうか?”と、

この問いに自ら気付き、ぶつかって、思いを馳せることができて、

はじめて本質と向き合う準備が出来たことになるのだと思います。

文字通り、原点に帰るということです。

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相手を理解するためには、まず相手の立場に立ってみないことには、わかりっこない。

というのと同じですね。

自分以外の者の立場に立つことは、固定概念という枠組みを壊し、

客観的に物事を捉えられる観察眼と、視野の広さを提供してくれます。

物事の本質である全体像を見るためには、

視野の広さを持つことはどうしても必要最低条件となりますから。

ヨガでも、「群盲象をなでる」という寓話になぞらえて

本質を知る方法を享受している資格スクールは多いのではないでしょうか。

 

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物事の一部分だけを理解して、全て理解したと

錯覚してしまうことほど怖いものはないです。

かつての自分もこれでした。

既成の概念に囚われ、自分の作った枠組みと思い込みの中に生きていた時の自分です。

そこから抜け出し、

「そもそものはじまりとなった思いは、果たして何だったのだろうか?」

というこの問いへの気付きを可能にしてくれたのが、

同じことを幾度となく“繰り返す”という行為でした。

 

どんな達人であれ、同じ工程を繰り返し行うという作業は決して怠りません。 

それは、“繰り返す”という行為そのものが、“基礎”の本質であるからだと思います。

幾度となく同じ工程を繰り返す。”

という行為は、

この世界に“基礎”という概念を確立させた原点と言えるでしょう。

 

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“基礎”とは、“繰り返し行う。”ことを指し示します。

逆に言い換えれば、どんなに簡単に出来てしまうことでも、

繰り返し行わない時点で、たとえ出来ていたとしても、

それは“基礎”とは言わないのです。

 

では、何故基礎がそんなに大切なのでしょうか、、、?

完璧に出来ていることでも、何故、繰り返し行うことを、

達人であればあるほどに辞めないのでしょうか?

それは、“繰り返す。”という行為が、

心に手綱を引く方法であるからです。

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「自身の心に手綱を引き、コントロールしましょう。」

↑これもよく聞くヨガの教えの一つですよね。

分かりやすく言いかえると、

「=鍛錬で身に付けた力をコントロールするのは、心の役割である」

ということです。

知識や情報、スキルには、力があります。

どんな力かというと、、、

それは、良い悪いを問わず、“人の心を変える力”です。

知識や情報は、持っているというだけで人々からもてはやされ、

脚光を浴びることができます。

難易度の高いスキルを習得したならば、さらに人々からの賞賛を受ける。

それは、他人に自分の存在意義が認められたという喜びや達成感、

さらなる高みへ挑む勇気を与えてくれると同時に、

その力に溺れ、奢り、優越感という快楽に支配されるリスクを背負うことにもなります。

 

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最初は、ただ“好き”という純粋な思いではじめたことでも、

いつのまにか、富と引き換えでなければ、

たとえどんなに好きなことだとしてもやらなくなってしまう。

そうして気が付けば、成し遂げたいと思う夢とは一番遠い場所にいた、、、。

なんていうのがいい例ですよね。

 

このように、光あるところには必ず闇が存在します。

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奢りや傲慢さ、慢心、過信といったものは、

脚光と賞賛の眩ゆいきらびやかな世界の裏に必ずある闇の側面です。

これらは因果関係にあり、切っても切り離せるものではありません。

 

─────力にはそれ相応の責任が伴う。─────

 

そして、その力の制御は、心でしかできません。

ヨガも、師が弟子にアーサナを与える時の基準は、

アーサナの出来栄えよりも、

弟子がそれを制御できる心の準備ができているかどうかで、

与えるか否かが決まるものだと思います。

だから、心の鍛錬はどうしたって必要になるのです。

 

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その心を鍛錬する方法が、

同じことを“繰り返す”という行いであり、=“基礎”を怠らないことなのです。

幾度となく初心に帰るという基礎は、

暴走しそうになる力を原点に繋ぐことができる。

それが手綱を引くということですよね。

そして、力を繋げることができる場所はそもそも原点にしか存在しないものでもあります。

なので、得た知識や情報、スキルなどの力をどこに繋げばいいのか分からなくなったら、

自分の始まりのきっかけとなった思いは何だったのか?

を思い起こしてみましょう。

そこが、得た力を唯一繋げられる場所の在り処であるはずですから。

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ヨガは、この世にたくさん存在する“始まりへ帰るための方法論”の一つです。

だから、ゴールはあくまで“=我に帰る。”ということを忘れないようにしましょう^ ^

 

 

 

 

 

心と身体は、人と人。

光と影は惹かれ合います。

互いにいるだけで引き立てあえるからです。

どんなに眩ゆく光を放っていても、影がなければ、

光は自分が光であることにすら気付けません。

 

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“光は光のままに、影は影のままに。”

互いにただそこにいるだけで、自分の存在が定義される関係、、、

とてもベストな関係の在り方の一つですよね。

 

では、この関係が人と人の場合だったらどんな感じなのでしょうか?

 

それは、

“あなたはあなたのままに。わたしはわたしのままに。”

ということになります。

もっと分かりやすく言い換えると、

= “あなたは、あなたのままでいてね。

わたしは、わたしのままでいますから。”

という関係。

お互いに、ありのままの自分でいることをもっとも楽で心地良いと感じる関係性。

 

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そこには、相手の在り方の否定や、自分の一方的な価値観の押し付けもない。

ただ、互いのそのままの全てを尊重し、認め合える関係。

これが、家族や恋人、友人や仲間に関係なく、

人と人の繋がり方のベストな形なのでしょう。

そして、ありのままの自分で生きている人ほど、

相手のそのままを受け入れられるその器も大きいものです。

 

でも、そんな簡単に割り切れるほど、人は強くはない、

のもまた事実です。

自分の立場を守るためなら、相手を攻めることだってしてしまう。

自分の利を得るためなら、相手を欺くことだってする。

 

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特に、競争社会に携わっていたら、いつのまにか、

自分に利や得になることが正義で、不利や損失は悪。

という価値観に自分の選択の全てを支配されてしまう人も珍しくはないと思います。

自分の人生を生きる主導権を手放した瞬間ですね。

 

─────人はそんなに強くはない。

 

たとえそれが間違いとわかっていても止まらない自分がいて、

今やっていることが、本当のやりたかったこととは

真逆だと分かっていても辞められない自分もまたそこにいる。

それも人間の一面です。

 

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自分もそうでした。

受け入れ難い事実の前では、

自分がこうも周りが見えなくなってしまうものなのか、、、⁈と

思うほどバカになる時もある。

 

そして、己の器の小ささと弱さを目の当たりにして、

やり場のない怒りだけが込み上げてくる。

どこにぶつけていいか分からない感情の蓄積はやがて痛みを生み、

その痛みをもたらしたのは他人ではなく、

結局自分であると悟った時には、もう手遅れで、

自分のバカさにただ悔いることしかできない。。。

 

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大なり小なりではありますが、

そんな思いを人生で一度は経験している人は多いのではないでしょうか。

 

どんな世界に生きていても、

自分の心が安らぐ場所を求めるのは人の本能のようなものだと思います。

たとえ、それが相手を否定したり、傷付けることになったとしても、

人は、自分の居場所が無いことには耐えられない。

 

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生きてる間は、自分の存在が定義される居場所が必要なのです。

だから、相手を否定することによって自分を肯定し、その中に生きる。

というのも、自分の居場所を確保するための方法の一つなのです。

 

中には、そうやって他者の否定の上に作り上げた自分の世界観を、

“理想の世界”だと錯覚する人もいるでしょう。

外から見たその世界がまるで、

鍵のかかっていない小さな鳥籠であることには、

本人は滅多に気付かないものですから。

 

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でも、他者の犠牲の上に築かれた個人の平安など存在するでしょうか?

犠牲となった側からしたら、相手が平和であるだけで、

それが彼らにとっては、暴力そのものであるはずです。

これでは、“平安”という価値観そのものが破綻してしまっていますよね。

 

今このブログを読んで下さっている方の中にも、

過去に、相手の居場所を奪った経験を持つの人もいるだろうし、

また、奪われたことがある人もいると思います。

もちろん、両方経験した人もいるとは思いますが、

どちらにせよ、、、

奪った側も奪われた側も、

痛みを背負うことには変わりはなかったはずです。

 

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そうやって蓄積された痛みは、人の身体をいとも簡単に病の中へと引きづり下ろす。

怒りや憎しみは、病に犯されていく心の痛みを知らせるための道具にしか過ぎません。

 

人の「身体」はその対である「心」に呼応するように出来ていますから。

だから、ヨガでも、はじめに、

「身体の原因は心に探すものであり、またその逆も然り。」

と、ちゃんと教わります。

心の声を否定した身体の鍛錬など、暴力でしかない。

 

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「心」と「身体」。

互いの声を否定することなく尊重する。

それが心と身体の繋ぎ方です。

はじめにあった、

“あなたは、あなたのままでいてね。

わたしは、わたしのままでいますから。”

という関係と全く一緒ですよね。

心身を繋ぐことは、人と人の繋ぎ方をも同時に教えてくれるのです。

 

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なので、もし、自分の作った鳥籠に入ってるかも。

と思い当たる節がある人は、まず一歩外に出てみましょう^ ^

狭い鳥籠の中では、器も育たない。

出る方法は簡単です。

“存在の否定”を辞めることです。

 

もちろん、一歩外に出た瞬間に仕返しに合うかもしれないし、

痛い思いをするかもしれません。

その痛みを知ったところで、強くなれるわけでもない。

痛みは乗り越えることでしか強くはなりませんが、

他人の痛みを分かち合う優しさを提供してくれます。

そして、それが自分の人生の主導権を握るということであり、

“生きている証としての実感”そのものなのです。

 

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檻の中にずっといるよりかは、面白いことがきっと待っていると思います^ ^

 

 

 

 

 

 

自分の見つけ方は人それぞれ。

“学ぶ”とは、何をすることなのでしょうか?

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学生の頃、

「個性豊かに。人それぞれ十人十色だよ。」

と笑顔で説く周りの大人達や先生の言葉とは裏腹に、

彼らの提供する“学び”は、十人を一色に染めるものが多く、

子供ながらにその矛盾がとても疑問でもありました。

 

好きな食べ物も選ぶ服も好みはまるで違うのに、

何故、同じ服を着させ、

同じ価値観を共有することに重きを置くのか。。?

“和”の心に必要なのは思いやりや優しさの類であって、

決して同じ価値観の中に生きることではないはずなのに…。

とか思ったりもしてました。

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“学ぶ”とは一体何なのでしょう?

 

あらかじめ用意された答えを解くことが学びなのか?

 

──────それとも、

調べれば分かることを時間と労力を費やして暗記することが勉強なのか、、、?

 

今や答えのある問題を解く能力やコピー能力は、

コンピュータの代名詞と言っても過言ではありません。

 

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それでも私達人間が、“学ぶ”ことに価値を置くのは、

それが自分の可能性を引き出す術であることを、

人は皆、心の奥底で無意識に確信しているからなのでしょう。

 

学ぶが故に可能性は生まれ、

その可能性に限りがないが故にまた追求したくなるものです。

 

学ぶ”とは、、、

自分の好奇心のままに何かを追求したり、

既存の概念に囚われず、まだ誰も取り組んだことのない新しいことを探求したり。。。

 

もしかしたら、

   ──そこには答えなんてないのかもしれない。──

                                          それでも尽きない好奇心…。

、、、そういったことが、

本来の“学ぶ”ということなのではないでしょうか…⁈

 

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だから、

世の中で自分の可能性を閉ざした生き方を選んだ大人が、

まだ自由な可能性に満ち溢れている子供を

教育をしている姿を目にすると、

めっっっちゃ変っ!って思ってしまいます。笑。

 

可能性が無限大に在るということは、

答えが無限大に在るということを示唆していますし、

また、答えが無限大に在るということは、

“=答えなんて最初から無い。”

                    ──────ということでもあります。

あらかじめ答えの用意された人生や世界なんてどこにも存在しないのはそのためです。

 

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だから、生きていて、

何かの壁にブチ当たった時に必要とされるのは、

答えを解く能力以上に、

それを乗り越えようとする信念や意志の力であるはずです。

その信念とは

“=自分を信じる力”と言い換えることもできます。

それは、何かに真っ直ぐこだわることとかではなく、

 

  ──“自分を信じる”とは、“=自分と向き合う”──

 

ということなんだと思います。

 

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ヨガをしていたら、一度は聞いたことはないでしょうか?

 “自分と向き合いましょう。

                                 というこの言葉。──────

もちろん、伝える語り手によって、色んな捉え方が出来ますが、

その根本に共通するのは

“自分を信じる”ということであるはずです。

ヨガの八支則に出てくるイシュワラプラニダーナの在り方がこれですよね。

 

自分を信じる力は、他の人の確立した知識や価値観に振り回されたり、

自分を見失わないようにするための土台を作る基盤となります。

他人の確立した知識や情報は、

自分が何かを学ぶ時の素材でしかありませんし、

また、それらに、

自分の価値を左右されてもいけないはずです。

あくまでも、自分の力で考え行うことが基本であるはずなのです。

なので何かに迷ったり、進路に困ったら

自分と向き合ってみることをオススメします。

 

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そして、“自分と向き合う”方法は、とてもシンプルでもあります。

それは、誰でも備わっている感覚のひとつである“直感”を使うことを指しています。

 

自分は、何が好きで嫌いなのか?

あるいは、何が得意で何が苦手なのか?

別に誰かに教わったわけでもないけど、理屈なしに何となく感覚でわかること。。。

「あっ、これ私好きかも‼︎

    あっ、でもこれは、

    多分どんだけやっても私向いてないね〜。

                …こりゃ身に付かんやつやわ( ̄▽ ̄;)」

 

、、、みたいな感じに。笑。

考えなくても、ただなんとなく分かること。

当たり前ですが、その直感が自分を知るという感覚ですよね。

その直感は磨けば磨くほどに、迷いなき自己を確立させていきます。

人は、自分を知った分だけ迷いがなくなり、

自分を信じれるようになっていくものですから。

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なので、よく迷ったり自分を信じれない人というは、

多分この感覚を長い間使うことを忘れちゃってるだけなんだと思います。

小さい頃は当たり前のように使っていたこの“直感”という自分を知る能力。

外で元気よく遊ぶ小さい子供を見ていると、

ほとんどの子供達が

この感覚に身を委ね生きていることが分かると思います。

だから、彼らの目には迷いはなく、

                          世界が真っ直ぐに映る。──────


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そして、それは、

私もそうでしたし、、、

今このブログを読んで下さっている皆さまも、

子供の頃はそうであったはずです。──────

 

もちろん、

今も変わらずその直感に身を委ね生きている人も沢山いるとは思いますが、

久しく使ってないな〜。と思うことがあったなら、

是非、使ってみることをオススメします。

 

得意不得意も、好き嫌いも人それぞれなら、

その向き合い方だって、それぞれちゃんと在って、

そして、それは自分にしか見つけられないものなんです。

だから、

他の人と同じことやってても意味なんてないんです。

 

自分には、自分にしかできないことが必ずあるんだ。

 

ということが、この世界の“常識”の一つであることを

忘れないようにしましょう。

それは、自分の在り方をこの世界に表現する時、

間違いなく大きな手助けとなってくれるはずです。

 

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“個”とは何か?

この世界は、生命として存在することに目的や理由を持たない世界と言えます。

自然と共に在る動物を見ても、

皆が等しくそこに在るがままの姿で存在しており、

今この瞬間に自分のベストをただ尽くしています。

そこに生きる目的や理由は存在しません。

 

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そんな自然の摂理の中で、

生きる目的や理由を持ちたいと思うのは、

私達人間にだけある特殊な概念の一つなのかもしれません。

生きる目的や理由は“個”として存在することに価値を与えてくれるからです。

しかし、目的や理由を持つが故に、そこには利害が生まれます。

その人々の損得感情は、争いを生み、

          やがて競争社会へと発展していく。──────

 

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ヨガ業界だって、今や立派な競争社会になっていますよね。

それが良いことなのか悪いことなのかは別にして、

競争社会とは、争い事が好きなどこかの知らない誰かが

創ったものではなく、私達一人一人の損得感情が

産んだ環境であることは一目瞭然と言えます。

 

、、、一方、動物達はどうでしょうか?

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彼らは無益な争いはしません。

目的や理由を持たないからです。

また、自分を他と比べたりもしません。

他人のものさしで自分の存在価値を測るという概念がないからです。

目的や理由を持たない彼らにとって、過去と未来は“無”に等しく、

逆に、今この一瞬一瞬の連続が常に自分にとっての全てとなります。

そこに迷いはなく、自分の持てる限りの最善を尽くしながら、“個”を謳歌している…。

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まさに、迷いなき絶対の“個”そのものと言えます。

ここ地球上で“生きる”とは、

本来はそんな感じだったんだろうな〜。と思ったりもします。

唯一無二である「自分」を謳歌するための体験の場。

それが私達の住むこの星の持つ役割のようなものなのでしょう。

 

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さて、

今まさしく、全ての人々がここで等しく“個”を体験しているわけですが、

その唯一無二の自分とは、

果たしてどんな自分のことを指すのでしょうか?

 

   ──────  “私は誰なのか?”  ─────

 

ヨガでもよく問われるこの問いは、哲学の原点に至る問いでもあります。

“個”の在り方とは、、、?

“個”の代名詞である名前を変えても、環境が変わっても、自分が自分で在ることには変わりありません。

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肉体は自分という“個”を入れている器であり、

感情はこの世界をよりリアリティに味わうための装備。

「物理的な肉体」と「非物理的な感情」

双方あってはじめてこの世界を謳歌できるが、

いずれも、

────   “=自分”  とは成り難い。────

 

では、

何かをやりたい、これが欲しい、あの夢を叶えたい。

と言った、自分の肉体を生かし、

“個”を突き動かしているその内なる原動力は一体どこからやってくるのでしょうか?

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そのエネルギーは、味も音もしませんし、見ることもできませんが、

確かにそこに在ることを、私達は毎日当たり前のように実感し続けています。

この世界を体験するのに必要不可欠な、

自分を突き動かす純粋なエネルギーの源。

それがなければ、ヨガをやりたくてもできないどころか、動くことも、まばたきすらもできない…。

それでは、屍そのものですよね。

ヨガ用語では、

そのエネルギーをプルシャと言ったりしますが、

他にも色んな名前によって表現されています。

精神エネルギーとか魂とか神とか。。。etc...笑。

 

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まぁ、どれでもいいわけですが(笑)、

重要なのはそのエネルギーは自分のものであって、

そこに他人のものは存在しえないということです。

ここは、

─── 果たして、自分には何ができるのか? ───

という、その自由な可能性の限りを探求し尽くす場です。

移り変わりゆく世界のど真ん中に鎮座し、体験しているのは

「自己」であり、他人ではありません。

でも、社会に順応していく結果の1つに、

どこかの知らない他人の作ったルールや知識、価値観といったものを、

自分のど真ん中において生きている人々がいるのもまた事実です。

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そのような生き方は、

自分が持っていた自由な可能性の限りを閉ざす生き方でもあります。

 

ここで、1つ例に挙げてみたいと思います。

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絵を描くことが好きなA君がいました。

ある日絵を描いていたら、先生に、

「みんなもう片付けてるんだから、A君も早く片付けなさい!」と怒られました。

その先生の中には、

“早く片付けられる子が良い子で、片付けられない子は悪い子。”

という価値観があったとしましょう。

もしここでA君が、絵を描くことをやめてしまったら、

その価値観は、

彼の中の才能を1つ掻き消す結果を招く可能性を秘めていることになります。

 

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“個”の在り方を表現する術を1つ見失った瞬間ですね。

そして、いつかA君が大人になって子供ができた時、

今度は自分の子供にもその価値観を押し付けるかもしれない…。

その通りに従う自分の子を見て、

“自分の生き方は間違いではなかった。”と、

自己を無理矢理肯定することで、満足しようとするかもしれません。

これも、些細な行動がもたらす悲しい結果の1つなのです。

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“周りが片付けてるから自分も片付けなければならない。”

“周りも努力しているのだから自分も努力しなければならない。”

↑他人の作ったルール上を生きる人に見られる思考の傾向です。

…まるでロボットのようですよね。

当たり前ですが、人間はロボットではありません。

そうやって、他人の価値観に群れながら生きることは、

果たして自分にとってどれくらい重要なことなのでしょうか?

少なくとも優先順位の1番には来ないことだけは確かです。

その先には「自己を見失う。」という結果以外、

何も残らないでしょう。

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そして、他人から植え付けられた価値観というものは、

他人に対して使うものです。

そこから、価値観の押し付けや、他と比べる。という行為が生まれます。

 

逆に、

自分の本来持っていた自由な可能性や価値観は他人のためには使いません。

自分の好奇心はいつでも自己完結型であるはずです。

他人は他人。自分は自分。

↑とてもシンプルですよね。

もし、私達一人一人が

みんな自分が本来持っていた自由な価値観でこの世界を生きたなら、

比べることなんて忘れてしまうでしょう^ ^

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何故なら、

たとえ同じことがそれぞれに起こったとしても、

自分の自由な価値観で推し測るその出来事は、

みんな違ったオリジナルの体験となるからです。

だから、比べる必要がそもそもないのです。

その状態こそが、

唯一無二の絶対の自分なのだと思います。

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しかし、誰でも、潜在意識に、

他人の価値観や思想は埋もれているものです。

ヨガでは瞑想を使って、そういった潜在意識の中から、

どれが自分の価値観でどれが他人のものなのか?を

識別する作業を行ったりもします。

他人のものと分かったやつは必要がなくなったら捨てればいい。

そうやって取捨選択した結果、最後に残るのは、

やはり、最初にあった好奇心溢れる迷いなき絶対の“個”なのです。

 

「再び自己と出会い、繋ぐ。」

↑ヨガスクールでよく聞くこのポピュラーな一節は、

それを体現しています。

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なので、もし何気ない日常の中で、他人と比べていることがあったなら、

自分は、本当は一体、何と何を比べているのか…?

、、、冷静に考えてみることをおススメします。

きっとそれは、潜在意識の中にある、

自分の価値観と他人の価値観がちょうどせめぎ合いをしている瞬間だから。笑。

 

“比較”とは、

自分の“個”の在り方を知る好機となり得る“気付き”

でしかありません。

そこに劣等感も優越感もありません。

自分が本当に好きでやっていることは、

決して他の誰かよりも優位に立ちたくてやっているわけではないはずだからです。

 

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そうなったら、競争社会の先にある、

ただ、在るがままに

“個”を謳歌する“自由社会”がやってくるのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここは相対性の世界。

ここは相対性の世界です。

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喜びの裏には悲しみがあって、

光を認識できるのは闇があるから。

男性がいるから自分が女性であることを理解できるし、

愛の裏にはちゃんと憎しみが見え隠れもしてます。

付き合てのラブラブカップルも10年経てば、

相手が家にいるだけで

チッと舌を打ちたくなる時も出てきます( ̄▽ ̄)笑。

愛がちゃんと憎しみに裏返った瞬間とゆうやつですね。笑。

 

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ここは、対比させることで

はじめてそのものの価値がわかる世界。─────

 

では、平和の反対はなんでしょう?

答えは、、、、戦争ですよね。

 

以前、行き詰まっていた時にこんなお話をして下さった方がいました。

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求めていたものが中々実らず、

その答えが知りたくてありとあらゆるツールに手を出しては調べまくっていた時期がありました。

そんな時に尊敬するその方から、こんな問いをされました。

 

     “平和の大切さは何によって定義されるのか?

 

この問いの答えは、戦争の悲惨さです。

とても簡単な問題でした。

でもその答えの奥にはもう一つの答えがありました。

今日はそのお話をしたいと思います。

 

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平和の反対は戦争です。

平和の大切さは、戦争の悲惨さがあってはじめて意味を成します。

争いがあるが故に、平和であることの価値が生まれるのです。

 

では、仮に、

今までに一切の争いごとも戦争も経験していない平和な場所があったとします。

当然、そこに住む人たちは戦争の悲惨さを

経験していないので、平和の大切さが分かりません。

 

そんな平和村に出かけて行って、

そこに住む人々に平和の大切さを力説したとしましょう。

どんなに平和の大切さを説いたところで、、

戦争の悲惨さを経験していない平和村の人からすると、

「それって、普通じゃない??

              ……当たり前なことじゃないの?」

っていうくらいのことにしか分かってはもらえないでしょう。

 

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本当に平和な世界というのは、

“平和”という言葉は価値どころか意味すら持たない。

大切なものは当たり前の中にこそある。

とよく言われますが、そのことがよく分かる例です。

 

だから、人々が平和を唱えるとき、同時にその裏には

必ずその反対の概念である”戦争の悲惨さ”が

存在することになります。 

それが私達の住む相対性の世界の特徴です。

 

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では、真の平和はどうすればもたらされるのでしょう?

…答えはとてもシンプルですよね。

 

平和村の人達のように、戦争の悲惨さを知らなければいいんです。

戦争の悲惨さを知っている私達にとってそれは、、、

=“忘れる”ということを指します。

 

争いごとや戦争の悲惨さに対して、

人々が無関心になった時、

はじめてそこは真の平和な世界となるはずです。

 

なのに、この悲惨さを忘れてはいけない…て、

毎年夏になると原爆の映像が流れます。

忘れてしまったほうが楽って知ってるはずなのに…。

忘れてはいけないことがまるで正義であるかのように。

 

平和に貢献すると言って、

平和を叫びながらプラカードを掲げて行進する姿は

真に平和と言えるでしょうか?

 

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そのよう行為の結果としてもたらされる平和は、

決して真の平和とは言えないはずです。

これが、地上から争いごとが根本的になくならない

とてもシンプルな理由。

結果的に、

戦争の悲惨さが人々の意識の中から消えないからです。

 

少し酷な言い方になりますが、

過去にこだわり、他人の痛みにこだわり続けた先にある平和の在り方には限界があります。

それで報いられると思うのなら、それは一つの奢りなのでしょう。

 

それよりも、一人一人が、自分の心の平和を掻き乱してまで、そのことに取り組まない。

という手放す選択をみんながすれば、

世界は一瞬にして平和になるでしょう。

 

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本当に平和な人達の生き方というのは、

自分の心の平安を1番大切にします。

それが、自他共に傷付かない方法であることを本質として知っているからです。

ヨガで言うアヒンサーの在り方そのものですね。

 

平和な世界をもたらすには、先ず己れ自身が平和であれ…。

ということです。

これが、尊敬するその方から教わったお話でした。

…自分のこだわりのちっこさに、どうでもよくなった瞬間でもありました。( ̄▽ ̄;)笑

 

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人は、誰だって自分のこだわりを持っています。

 

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ヨガのポーズの完成形を例の一つにとってみても、

練習を積み、経験を重ねていくほどに、

そのこだわりはやがて、

“信じて疑うことのない信念”へと変化していきます。

ただ、その信念は、果たして本当にそんなに

                     大切なことなのでしょうか?──────

 

“平和の大切さ”

↑とても清く聞こえるこの思想。

でもその原因になったのは“戦争の悲惨さ”ですよね。

ならば、

“疑うことを知らない信念”

の裏に見え隠れしているのは

「これは、こうであるべきだ!」

、、、とこだわる“自分の固定概念”です。

ここは相対性の世界。

原因と結果、作用反作用の世界ですから…。

 

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真の平和を体現している場ほど、

“平和の大切さ”など何の意味もなさないように、

いつか、その信念も

「もう自分には必要ないなぁー。」

…と、自然に思えるようになったら、

それがポーズの完成であり、ヨガのゴールなんだと思います。

 

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そしたら、この猫ちゃん↑のように、

当たり前に、どんなポーズも楽にとれるようになっているのでしょう。笑。 

 

八支則:感情のコントロール

ヨガの八支則に出てくる感情のコントロール

どうやって感情をコントロールするか?

 を自分に問うことは心を豊かに育みます。

 

だから、

まずはこの“問い”と、とことん向き合ってみることを

お勧めしたい。

 

  ───『感情とは何か?』──────

 

 という問い。

 

哲学の根本は“問う”ことにある。

 

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さて、『感情とは何か?』

それを知るために一つの仮説を立ててみた。

 

仮に、“感情のない人間がいたら、、、?”という仮説。

 

美味しいものを食べても美味しいと感じない。

誰かと共感を分かち合うこともなく、目の前の出来事に

一喜一憂することもない。

感情と共に獲得されるはずの経験を持たない人。

 

連続する経験の流れを持つ意識的な自己こそが

                                         人で在る証のはずなのに。

 

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だから、この世界を生きるには感情が必要。

美味しいものを美味しいと感じ、

楽しい出来事に笑い、悲劇には涙を流す。

この世界をありのままに味わうためのもの。

 

自分は何が好きで何が嫌いで、何に喜びを感じ、

何に怒りを覚えるか?をありのままに知らせてくれる。

それが感情です。

 

でも時として、

人は味わったその感情にジャッジを下す。。。

 

「こんな感情を抱く自分は〇〇だ。」

「だから、私ってあ〜なんだ。私ってこうなんだ。」

、、、という具合に。

感情はジャッジされるために在るものではないはず。

 

そのジャッジは、いつか

「だから、あいつってあ〜なんだ。

                              こいつってこうなんだよね。。」

「だから、この世界って、、〇〇なんだ‼︎」

…というように、この世界をもジャッジしはじめる。

 

目の前に広がる世界は、

ただそこに在るように在るだけなのに、歪んだ世界に

見えてくる。

自分が歪ませてることに気付きもしないで。

 

 

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過去の自分もこんな感じだった頃がありました。

でもそれがなければ感情の正体を自分に問うこともなく、

ひねくれ人間まっしぐら街道だっただろうから、

さぞ人格のめんどくさい奴に育っていたんだろうな。。と思う。笑。

 

感情のコントロールは難しくない。

味わったその感情を偽らなければ、

それが感情のコントロールです。

 

その瞬間に抱いた自身の感情を否定する必要はない。

行きたくないと思ったなら

行かない選択をすることを忘れてはいけない。

 

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誰かを妬むほどに羨むことがあったなら嫉妬すればいい。

どんな思いであれ、そう思った自分を恥じないで欲しい。

その思いは承認すべき自分の思いである。

 

『あんな感情を抱いた自分はなんてダメなんだ。』って否定するのは、

『不味いものを食べて不味いと思った自分は

なんてダメなんだ。』と思うのと一緒です。

不味いものは不味い!

それがダメだなんておかしな話なのに、

それすら分からなくなる。

自己への否定は、そうやって人を盲目にさせる。

だから、この世界は己を知ってから観たほうが良い。

内観や瞑想はそのためにある。

 

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世の中で脚光を浴びやすいプラスの感情と等しく、

負の感情も光を灯すべき大切な自分の思いの一つです。

世間の声一つで

抱いたその感情を無かったことにしてはいけない。

そんな思いが在ったことを承認することは自分を許し、

他人を許す心の器を育んでくれます。

人は、自分を許した分だけ、

器が大きく育つようになってますから。

 

プラスとマイナスなんて、中庸から見れば全く同じことで、どっちが良くてどっちが悪いだなんて、

多分どうだっていいことなのでしょう。

 

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“中庸が大切”

↑これ、ヨガスクールで最初に学ぶ知識の一つです。

でも、“それを知っている”だけでは意味がない。

、、、ということも、知ってるはず。────

大切なのは、得たその知識を自分で実感することです。

 

そして、中庸の実感はとてもシンプル。

ただ自分に素直で在るだけでいい。

ただそれだけでいい。

 

ヨガ用語で言うなら、

“サティヤ=自分に正直にあれ。”

 

その自分に素直で在る瞬間だけは、

もっともニュートラルな、もっとも自然体な自分のはずです。

 

それが心に映る感情に振り回されない軸の作り方

であり、心のサマスティティヒだと思う。

 

だから、 是非とも

             自身の行動を心と共に置くことを

                                        お勧めしたい。────

 

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