白 夕雨の日記

柔軟、ヨガ、何となく思っていること。

可能性

皆さま、こんにちは^ ^


大阪に引っ越しきて1ヶ月半。

生活が落ち着いてきました!!


ということで今回は、自分がカチコチだった身体を柔らかくしていった経緯とか、、、etc...

を書いていこうと思います^ ^

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私が、柔軟系のトレーニングをするようになったのは今から2年半くらい前からです。


ヨガの練習を続けていく中、そもそも1番最初にその魅力を感じのはなんやっけ?

 

って振り返った時、

はじめて受けたヨガクラスの先生があらゆるポーズを自由自在にとっている姿が、

めっちゃカッコよかったからでした✨


ヨガであろうとなんであろうと肉体を扱うにあたって、

その本質は

自由自在に身体を動かす。”ことには変わりない。

 


だから、その本質を理解するのに、

私なりの方法を追求したくなってみたのが始まりでした。

 


そして、それを可能にするのに必要なことは、


充分な関節可動域の広さ“と

それをコントロールするための筋収縮力。”

たったこの2つだけでした。


ヨガで言うならば、

充分な関節可動域の広さ=解放し緩めることであり、

筋収縮力=バンダの力

に当たる感じですね^ ^

=1番最初に習った基礎とゆうことでもありますね😅笑。


やろうとしている技やポーズに必要とされる可動域を自分が持っていなければ

それは可能にはならないし、、、


また、持っている可動域が足りていてもコントロールできなきゃ、

その可動域にすら自分が振り回されるのです。

そして、コントロール=筋肉を収縮させること。


私の場合、てこずったのはこのコントロール力でした。


これはよくご質問でも頂く内容ですが、

筋肉に力を入れることと筋肉を縮めることは、全く別の感覚になります。


例えば、腕に大きな力こぶを作る💪使い方は、筋肉を一時的に力ませますが、

(筋肉を単一で美しく魅せるのに効果的✨)


肘を曲げるといった関節を動かす運動時は、

筋肉の長さを縮めることで骨が動き、結果肘が曲がります。

自分の肘を曲げるのに大きな力は必要ありません。

身体を自由自在に動かすには、

この最小限の縮む力を使って骨を動かし最大の関節可動域を出すスキルの習得が

必要不可欠なのです。


それまで筋肉を力ませることでポーズをとっていた私にとって、

この縮むという感覚を掴むには、今まで得意だったこと・できていたことを、

まずは、全て捨てるところからの再スタートでした。笑。


柔らかい股関節に頼りまくっていたのを辞めたことではじめて裏ももと腰が縮むようなり、

腕力満開でやってた逆転ポーズも、

それを使うことを辞めたことで、

はじめて首と体幹が繋がる感覚を手に入れられました。


「今まで得意でやっていたことを辞めてみる。」

と自分に決意することはとても勇気がいりますが、、、


苦手分野を克服すると今度は得意だったことを久々にやった時、

さらにその得意分野のクオリティが上がっていたりするものです^ ^


何か一つのことを追求するには、

必ずその中に存在する2つの性質を理解する必要があるということですね^ ^

 


結局のところ、、、

 


遅かれ早かれ、

自分の中にある固さや緩さと向き合う瞬間というのは必ずやってくるもので、

 

それをいつにするか?のタイミングを決めるのもまた自分自身ではありますが、

 

何かを選択するには、

”闇も光も必要“

だということを忘れないようにしておくことはとても大切なことだと思います。

 


なので、そんなタイミングがやってきた時には、

ぜひ、両極の性質をそれぞれ選択としてご自身に用意してみることをオススメします^ ^

 


なぜなら、いつもと違う選択肢を自分自身に用意することは、

0から1を生むことと何ら変わりありません。

 

自分の身体がいったことのない先の可動域を自分で見つけるには、

この0から1を生む経験がとても力強い味方になってくれるからです^ ^

 


私の場合、今自宅でプライベートレッスンをやっていますが、

その内容のメインといえば、

クライアントさんの身体がまだ体験していないであろうその先の可動域を引き出すことと、

それを引き出すための様々なトレーニングや筋肉の癖の除去のお手伝いなどです。


もちろん私が引き出せる可動域は、私自身が体験したことのある可動域のみになります。

私より柔軟性に特化した方は私のところにはやってこないのは当たり前ですが、

だからこそ自分の柔軟性の向上には終わりがないのです。


そして、柔軟性を向上させるための手順と手段は、とてもシンプルで、

 

1.緩める→2.伸ばす→3.縮める

です。


固くなっている筋肉は必ず温めてほぐして緩めます。

(※筋肉自体が不足している場合は、まずは筋トレして筋肉を育てましょう!!)

次に、筋肉を伸ばして可動域を広げます。

最後に伸ばした筋肉を縮めることで可動域のコントロールに繋げます。


柔軟系を専門とするトレーナーや、

指導者のアジャストによってその先を導いてもらうなどの、

いわゆる他力を借りれる工程は、

圧迫による関節可動域の拡大”のみです。

あとは全て自分の練習しだいになります。


(※もちろん、圧迫しすぎても脱臼したりその負荷に耐えれなかった場合、

身体は壊れてしまいますので、アジャストをする際のその見極めはとても重要になります。

私の場合その見極めは、自分の身体で試して感覚を掴む練習をしました。


物事の仕組みを理解する工程は、

一度分解して解体した後、一つ一つのパーツを確認しながら、

それらをもう一度自分で組み立てることで、本当に理解できるようになると思います。


物事の理解には“壊す”という工程が必要不可欠だとゆうことですね^ ^


関節の仕組みを理解するのもそれと同じで、一度解体しバラバラに壊せばいいのです!

 

、、、、が、


身体は一度バラバラに壊してしまっては修復困難になっちゃいます。。。(・・;)笑。


だから、壊れるか壊れないかギリギリのところを自分の身体で探って感覚を掴むのです。)


そして、一度でも体験した可動域は身体が必ず覚えていてくれています。

誰かの力によって導かれたその感覚を、

今度は自分で試行錯誤してもう一度引き出せるようになったら、

もう二度と忘れることはないのです。


自転車の乗り方のように忘れなくなったら、それが、

習得”なんだとも思います。


ただ、その先を導いてもらえる人が近くにいない場合は、

全ての工程を自分でやる必要があります。


特に体験したことのない先の領域を自分で見つけるというのは、

そもそも選択肢としてまだ存在して”無“いものを“有”にする。ということなので、

それ相応の集中力が必要不可欠になります。


なので、日常の思考を容易に置き去りにできて

それだけに集中できる環境が必要になってくるため、

そういった環境が整いにくい場合は、無理に自分の中でもがくよりも、

指導者やトレーナーを使ってヒントを得ることも大切だと思います^ ^


もちろん、それでも自分の力で見つけてみたい!というのも全然ありです!

何より、私自身がこの頑固タイプ↑でしたので。。。😅笑笑。


自分の力のみで可動域を広げたい場合、

それを可能にしてくれるのは

呼吸の力“になります。


関節可動域の向上は、必ず骨の骨の間に充分なスペースを確保してから行うものですが、

中には、

スペースがない状態で無理やり曲げようとする方もいらっしゃいます。

私もその1人でした。笑。


分かりやすい例で言うと、

スペースの確保がないまま腰椎などの関節を曲げて深い前屈や後屈をやっちゃう。

みたいな感じです。

 

これは、ヘルニアなどの怪我に直結しますので、あまりおすすめしません😅笑。


なので、

呼吸を使って、まずはスペースの確保に徹すること!!


↑これが、個人的には、自力で柔軟力を上げる時の1番の近道だと思います!


呼吸の”吐く時“というのは、

自然と重力の重みに引き寄せられるように身体が脱力されます。

その時、骨と骨の間のスペースももちろん重力の重みによって少し小さくなります。


自分で可動域を広げる時は、その吐く呼吸時の脱する力を利用します。

脱力を保持したまま、その力とは真逆の方向へ重力に抗うようにして、

小さくなろうとしている骨と骨の間のスペースを大きくしようとするのです。


この互いに引っ張り合う力が関節のスペースを物理的に作る方法です。


なので、吐く呼吸のコントロール

=肉体のコントロールに直結しますので、、、


呼吸法をナメまくってた私にとっては、、

これを身体で発見した時、

呼吸マジでナメたらアカンやつやった。。。

と、痛感した瞬間でもありました( ̄▽ ̄;)笑。


呼吸大事!って頭では理解していたつもりでしたが、

結局のところ、

『頭では理解している。』というフレーズは、

 

それはおそらく理解していないのと何ら変わらなくて、、、

『情報をただ所有している。』だけだったんだということでしたね😅

 


ちょっと話逸れちゃいましたが、

もしご自身の力で可動域向上を目指す時は、

こんな感じで呼吸の特に吐く息を大切に練習してみて下さい(^^)

 

(最後に。。。)


飛躍には限りない可能性が必要です。


可能性とは、身体の柔軟に置き換えた場合、

可動域だと思います。

また、その可能性の実現が、

可動域のコントロールだと思います。

 


もし、ご自身の中に眠っている“可能性”に何となく気付いているならば、

それをスルーし続けないように。


そして、見て見ぬふりをしていた苦手分野も

また自身の限りない大切な可能性の一つであることを忘れないように。


それも含め自分であることを謹んで受け入れることが、

自分を尊重する

ということなんだと思います^ ^

 

 

以上。終わり。

 

毎回、長文のブログを最後まで読んで頂き大変にありがとうございます😆

 

また9月中に、YouTube1本あげれるよう頑張ります😆💪

ではでは、また次回まで(^^)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今さら自己紹介。

皆さん、こんにちは^ ^

 

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突然ですが、この度8月より大阪へ引越しすることが決定いたしました!

 

1年半前、家族の仕事の関係で大阪から関東に引越してきたのですが、、、

また家族の仕事の関係で大阪へ引越しすることになりました!笑。

 

、、、と言っても、

今のところ大阪での滞在期間も多分2~3年の見込みのようです💦笑。

 

思い返せば、、、

34歳にして、これで引越し14回目っ!!

(↑多分、この回数はちょっと引越し多い民な気がしております🙋笑。)

 

中でも1番遠かった引越しは、

小さい頃、中国ハルピン市から日本へ引越してきた時です。

あっ!

生まれは中国なんです^ ^

 

、、とゆことで、今さらではありますがここで自己紹介をしていきたいと思います。笑

 

 

▪️1986年5月25日(現在34歳)中国生まれ。

父の仕事の関係で小さい頃に日本に移住し、二十歳の時に国籍を日本に帰化してます。

 

帰化する前までの本名が

『白 雨(はく う)』

帰化した後の本名が

『白 夕雨(はく ゆう)』です。

 

中国にいた頃は農作物を耕しながら、

常に庭には色んな動物たちが放し飼いされていたような暮らしをしてました。

あっ、そういえば家にはおトイレすらもなかったですね( ̄▽ ̄;)笑。

 

そんな私にとって初めて上陸した日本という土地は

全てがハイテクで新鮮で、

中でもランドセルという高価すぎるカバンを

当時小さな子供である自分に与えてもらえたことは、

とても贅沢でワクワク嬉しかったのは今でも覚えてます^ ^

 

そして、今回14回目の引越しは埼玉から大阪へ。

旦那と2人でトラック借りて、ドライブしながらの引越しとなりました😆

 

、、、引越しと言えば、毎回荷物を整理する度に思うのが、

もし自分が死んだ後、

誰かに片付けしてもらわないといけない荷物、相変わらず多いなぁー。

 

、、、です( ̄▽ ̄;)笑。

 

「柔軟やヨガしてる時、楽しくて好きで満たされてる気がする。」

なんて思ってる自分はやはりまだまだエセで、

 

実際は、地震がきても崩れないであろう立派な家と

こんだけのエゴを満たすための物が身の回りにあって、

自分の幸福度が満たされている。

 

「あれがこれがなければ満たされない…」という、

 

幸福を感じるのによりたくさんのものを必要とする

 

のは文明が生んだ1つの結果なんだろな。

、、、とか思ったりもします。

 

何も持たず無一文でしがらみがない。

ことが本来の“自由”の在り方であるならば、、、

 

沢山のものに囲まれその中で好きな選択をすることが本当の自由なのか?

それとも、

何もないところから究極の一手のみを選択することが本当の自由なのか?

 

は、計り知れない。。。

 

そして、文明にあやかって生きている自分にとっては、

前者が希望であり、後者は絶望のように思える。

 

、、、ちょっと話それちゃいましたね💦

 

自己紹介に戻ります!!笑。

 

▪️好きなことは寝ることと猫と戯れることです。

 

基本、毎日10時間位は寝るのですが、

よく寝る分、夢もよく見るせいか、、、

 

たまに現実と区別のつかない夢の記憶の扱いには困ることが小さい頃から多々ありました。

 

皆さんも意外と経験ないでしょうか^ ^??

 

例えば駅前歩いてたらちょうど2日前も来たなぁ〜。

みたいな記憶を思い出したものの、、、

 

よくよく考えると、、、

スケジュール見直しても、、、、

 

『2日前、駅前には行ってない!!!』

ってなって、、、

 

その時、

 

「あれは、夢のほうの記憶か。」

って、ようやく記憶の仕分けがされる。

みたいな感じです。笑

 

“曖昧な現実”であろうと“鮮烈な夢”であろうと、

脳にとってそれらは“記憶”という本質には変わりないんだろうな。

、、、と、よく思います。

 

何より“現実”だと信じて疑わないこの世界が果たして本当に現実なのか?

の確証は、そもそもはじめからどこにもない。

 

こんな感じで、物理的な時間の流れからはみ出た鮮烈な夢の記憶の扱いには

今でも困ることが多々あります😅

 

、、、結局のところ、各記憶の引き出しに刻まれた“時間”という概念は、

記憶を分かりやすく整理するための“ラベル”でしかなく、

過去から未来へ。

という人間の脳の中で認識している“時間”の本質は、

必ずしも実在している“時間”の本質と同質だとは限らない。

 

次に、

▪️今現在の目標は、

“自分の身体を自分の思い通りの方向に動かすこと。”

で、

▪️生きている目的は

“特にない。”もしくは、“分からない”

です。笑

 

↑「生きてる目的は?」

なんて聞かれもしないし深刻に考える機会も多くないかもしれませんが、、、

 

小学校の道徳の時間に教わった

みんな幸せになるために生きている

というフレーズに関しては、、、

 

「幸福を味わうために、今日も生きるんだ!」

って思いながら今日を生きた日は、、、

多分過去にない。。。

 

って屁理屈を言いたくなってしまいます😅

 

↑共感する方いませんでしょうか😅。。?笑

 

▪️また、小学生の頃と言えば、、、

密かに思っていた将来の夢の1つは

25歳で死んで、空を飛ぶこと”でした。

 

多分、子供の頃、空を飛びた過ぎて(笑)、

肉体手放したらその分軽くなるから浮けると思っていたようです😅

 

そして肉体さえなければ朽ちるための物質がそもそもなくなるので

劣化することに縛られず永遠に遊んでられて、

お隣の銀河までも飛んでいける。と、、、

 

矛盾してますが、小さい頃はなぜかそう思い込んでました。笑

 

(25歳に設定したのは、大人の身体つきになるまではそこそこ生きたいと。

結局25歳をとうにすぎた現在もめっちゃ生きてますが、、、笑。)

 

何億光年かかっても辿り着けない星が沢山存在するこの広い宇宙に対して、

100年にも満たない人間の寿命があまりにも短すぎることを、

子供ながらにどうしても疑問で納得できなかったのです。笑

 

こんな感じで、皆さんも小さい頃、

変な疑問や想念を抱いたりしなかったでしょうか😊?

 

・ここが宇宙空間であるならば、その空間すら存在しない場所ってどんなんなんやろ?

とか、、

・なんで脳は、右脳と左脳に分かれちゃってるの?...etc

とか、、、

 

その疑問や好奇心が色んなことを学ぶきっかけとなって、子供は大人へと進化していき、

 

また逆に、歳月と共にだんだんと疑問を抱くことをしなくなっていく大人とは単に、

=“子供の劣化版

、、、である事実も否めない。。。

 

次に、

▪️今現在の職業は、

ヨガインストラクター&柔軟トレーナーです。

 

、、、と言っても、

決して“ヨガ”や“柔軟”で生計を立ててるわけではありません。

 

悔しいですが、現状まだまだ未熟でアマチュアな私は、

ヨガや柔軟のみで、金銭を発生させれるだけの技術も魅力もないのです😅

 

私が生計を立てられているのは、“インストラクター”や“トレーナー”という仕事で、

“人に伝えること。”という行為で報酬を頂いている。

決して、“柔軟をする”、“ヨガをする”、

という行為ではないのです。

 

分かりやすく例えると、、、

 

・野球やサッカーに例えると、それらのスポーツを教えることで報酬を得ることと、

そのゲームプレイだけで報酬を得ること。の違い。

・音楽や絵画などの芸術に例えたら、

音楽教室や絵画教室の先生という職業で報酬を得ているのか、

あるいは、その人の作った音楽や絵画に報酬が発生しているのか。の違い。

 

みたいな感じです^ ^

 

インストラクターやトレーナーという職業の本質は、

“知識の解説や指図をしたり、動作の訓練を補助する。”ことです。

必要とされるスキルは解説力や知識力などが挙げられます。

 

もちろん、これが、

“先生”のように、“人様に教える。”という行為なんかになってくると、

そこには、技術の習得が必須条件となってきます。

 

そして、技術を習得するためには、鍛錬と果てしない時間が必要となります。

 

誰かが用意してくれた知識集をどれだけ頭に叩き込んで解説しても、

経験の伴っていない知識は所詮、

他人様のものだからです。

 

やはり、体験をもって自分の身に落とし込まない限り、教え方はわからないものなんだと思います。

 

当たり前なことではありますが、

“10年やって一人前。”という格言にもあるように、

人様に教えるには、まず自分が一人前になることが大前提とゆことですね😅

 

私の場合、

・ヨガ→はじめて7年。

・柔軟→はじめて2年。

 

、、、なので、

一人前になるには、まだまだ×2練習と時間が必要とゆうことでもありますね。。。😅💦

 

何かを得るために何かを差し出さなければならない時、、、

自分自身を等価交換するならば、、、

 

多分、人間、身一つで差し出せれるのは

やっぱり現実的に“時間”と“努力”なんだと思います。

 

よくご質問を頂く内容で、

「結果を急いでしまう。」

「いつになったらできますか?」

とゆうのがあります。

 

これは私の独断と偏見になりますが、

 

「早く結果が欲しい!!」

 

、、、と思考が強くなりがちな場合は、

恐らく自分に時間を使うことで得られる経験を

まだたくさん体験していないだけなんだと思います。

もちろん私もまだまだ少ないですが😅

 

自分のために地味な練習を一段ずつ積み重ねることでしか得られないことがある。

 

急いでるが故に、階段を二段飛ばしして最上階まで行ってしまっては、

飛ばした段に何があったのかは分からないのです。

だから、また飛ばした段まで戻らなければならない。。。

 

、、、これでは近道したつもりが、実はめっちゃ遠回りになってるんです😅

 

なので、“自分のために時間を使うことを努力する”ことが、

結果、1番の近道になったりするのです。

 

 

たった一つのことだけでも、それを通して沢山の経験を得ることはできる。

 

そしてその方法は、何事も

一段ずつ上がっていく心構えを忘れないこと。” 

 

それが、

自分のために時間を使う。

ということの本質であり、

 

、、、基礎練習をコツコツやる。みたいなことですね。

 

自分のために時間を使うことは、贅沢の一種なのかもしれませんが、

贅沢な時間の使い方の本質は、こんな感じで意外と地味だったりするんだと思います、、、笑。

 

 

、、、とゆことで、最後、だいぶ話それちゃいましたが(笑)

 

以上、自己紹介でした^ ^

 

8月からは、大阪で活動をまたしていきたいと思っております。

 

セミナーとかグループレッスンもたまにやっていこうと思いますので、もし良かったら

 

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では、また次回まで^ ^

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

痛いストレッチはあり?なし?

皆さん、こんにちは^ ^

 

久々のブログ更新となりました( ̄▽ ̄;)

 

YouTubeをはじめると、その編集の不慣れに思いのほか時間がかかり、ブログ放置となりましたwww

 

ということで久々のブログは、身体を扱うにあたって、

日常よく頂きますご質問をピックアップしてお答えしていく

『あるあるQ&A』コーナー的な感じで、書いていきたいと思います^ ^

 

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Q.痛いストレッチはあり?それともなし?

 

A.個人的にはありです^ ^

 

痛いストレッチは、その目的によって異なると思います。

“気持ちよくゆったりとストレッチを行って、身体の緊張などを軽くほぐしたい。”

といったことが目的ならば、

自分が気持いいと感じる方向に程よく伸ばすのがいいと思います。

行きすぎることなく、痛みを感じない範囲内で行うのが心地よいはずっっ^ ^

 

逆に、

“自分の最大可動域を広げ続けたい。”や、

“自分の限界値に挑戦したい。”

 

が目的であるならば、それ相応の鍛錬は必要になりますので、

鍛錬に伴う苦痛は受け入れることが前提になります。

※心地よいだけのストレッチではいけない先があります。

 

そして、大切なことは、

“無理をすること”と、

“限界を超えること”は、

全くの別物なので、それを混同しないように注意を払うことです。

 

例えば、一日中働いて疲れきった身体に鞭打って練習をするのは、

とても非効率的で明らかに無理をしています。

それならまずは身体に充分な休息を与え、万全な体勢にしてから練習に挑み、

その中で限界値に挑戦することをオススメします。

疲弊しきった身体で毎日練習するより、

週に一度1時間程度の練習でもいいので、

身体を万全にして全神経を集中できる環境下で練習をするほうが、

身体の変化は早いと個人的には思います。

 

またその他にも、準備が不足している状態でいきなり高度なポーズや技をとったりすることもオススメしません。

それも、身体に無理をさせています。

その場合は、まずは自分の身体の現状を知ることを最優先にするのがオススメです。

 

本当に筋肉が温まっていて使える状態にあるのか?

温まっていないのであれば、まずは入念にウォーミングアップをしましょう^ ^

※冷えた筋肉は、乾燥ワカメと同じです。そのままいきなり急な負荷をかけて使ったらポキっと折れます💦

 

そうゆう意味では、

お風呂上がりやホットヨガなどはただそこにいるだけで、

体温が上がるのでとても効果的ですし、

私もお風呂上がりのストレッチは毎日しますが、、、

 

でもオススメはやはり

自分で自分の身体を動かすことで熱量を上げる運動を怠らない』ことです。

 

何故なら、↑この工程が自分の基礎を作る原材料だからです✨

 

“ホットな環境”という他力によって、自分の基礎を作ることは不可能ですので、

基礎身体能力を向上させたい方は、常温運動をよりオススメします✨

 

また、自分の基礎力は、

“立って片脚をまっすぐに、最大限上げられるところで最低10秒くらいキープできる。”

が、一つの基準かな〜とも思います。

イメージとしては、手を使わずにY字バランスを10秒以上とる感じです。(※脚力は基礎土台)

 

この基礎ができない状態で、逆転や深い前屈後屈などの応用ポーズを行い続けると、

必ず筋肉が力んで硬くなったり、腕力のみの過剰発達や怪我などの代償が生まれます。

 

自身の基礎力に伴っていないポテンシャルを超え過ぎた練習は、

必ずどこかで歪みを生むということです。

これは、“限界に挑戦している”とは言い難く、

自分の願望(エゴ)のために

“無理を身体にさせている”と、個人的には思います。

 

↑とゆうか、私自身がまさにこれでしたね。。。😅笑。

なので、抱いた願望・希望はそれに適した方法で実現させることをオススメします。

 

そして、怪我や中々上達しにくい原因があるとしたら、

それは、解剖学などの知識不足や勉強不足なんかより、

大半は、単純に基礎身体能力の不足が原因だと思います。

知識が役立つタイミングというのは、基礎の軸がある程度備わった後です。

弱い軸では、その知識に自分が振り回されることになるので。。。😅

 

なので、最低でも立って片脚を最大限上げたところでキープ10秒、

逆立ち系や深い前屈後屈などの応用ポーズをとるならば、

そのポーズで最大キープできる時間と同じだけ、もしくはそれ以上、片脚上げキープもできる必要があります。

分かりやすい例でいうと、

ブリッジとか、壁倒立で1分キープできるなら、

立って片脚上げキープも1分以上できることが前提ということです。

基礎と応用の関係は、

基礎≧応用だからです。

 

特に逆立ち系は、脚力が弱くては必ず腕力の力みに頼らざるおえなくなります。

腕の力みは肩の力み、肩の力みは首の力みに直結し、

そして首の力みは脳と背骨をカッチカッチに硬くします😅

 

こんな感じで、思考の柔軟力低下や、

しなることが苦手な肉体の出来上がりにも繋がると思います😅

 

ここで余談ですが(笑)、、、

 

「そうは分かっていても、上級者向けのヨガのポーズはできるようになりたい!」

とか、

「応用技をかっこよくキメたいけど、痛いストレッチやキツい練習は嫌。」

 

、、、という具合に、やはり人間ならではのジレンマは、誰でも普通に抱くと思います!笑。

もちろん私もです( ̄▽ ̄)笑。

 

その自分との駆け引きが、

結果、自分の精神を制御する練習そのものにもなっているわけですが、、、

 

もちろん、苦痛に出会った時、それが嫌でやりたくないなら、やらなくていい。

という選択だって全然ありです。

 

ただ、その選択が、

▪️自分の感情に振り回され従った選択であるのかどうか?

▪️自分の都合のいい解釈として捉えていないのかどうか?

 

は、慎重に分析することをオススメします。

 

自分の身体にとって本当に必要なことは、

必ずしもその時々に抱く感情と一致するとは限らないし、

むしろ、逆であることのほうがずっと多いようにも思います。

 

何しろ、人の感情は気まぐれですから😅笑。

感情や人格のようなコロコロ変化するものに自分の根底を同化させすぎると、

本当に必要なものが分からなくなることもあります。

 

 

、、、何にせよ。

 

“苦痛”に対面している瞬間というのは、

自分の根底と向き合わざるおえない環境を必然的に作り上げてくれる。

 

ただ、“苦痛”と出会うだけではまだ何も始まっていないのと同じなんです。

 

何故なら人の成長を支えてくれるのは、

自分の痛みがもたらすその結果と向き合った回数の積み重ね”であって、

決して“出会った回数”ではないからです。

 

↑これは、

同じところでぐるぐると地団駄踏んだを繰り返してきた自分が味わった経験です。

 

もちろん今も地団駄踏んだはよくありますが。。。( ̄▽ ̄;)笑。

 

 

、、、とゆうことで大分余談長くなってしまいましたが(笑)、

 

痛みを伴うストレッチは、時と場合によって必要ということです💡

 

筋肉を強くするために行う筋トレで筋繊維がちぎれて破壊され、

筋肉痛として現れるのと同じように、

筋肉を柔らかくするためのストレッチだって、筋繊維がちぎれて破壊されれば、

筋肉の痛みとしてちゃんと現れるのです。

 

そして、ちぎれて破壊されたその筋繊維が修復されることで、

1ミリずつ長さが足されていくようなイメージ。

これで、はじめて前より少し伸びる筋肉に変化するのです。

“破壊と創造の繰り返し”とゆうやつですね✨

それが“変化”の本質なんだとも思います。

 

もちろんただ引き伸ばすだけでは、

使い古したヘアゴムのように縮む力がなくなりビローンと伸び切ってしまうので、

逆の運動である筋肉を収縮させる筋トレも合わせて必要になります。

 

そして、筋肉のコントロールとは、

=伸ばす力と縮む力の割り合いを自由自在に制御すること。

なので、筋トレとストレッチのどちらか一方だけでは到底なし得ません。

 

筋トレだけでは、“硬さ”に繋がり、

ストレッチだけでは、“緩さ”に繋がります。

 

筋トレとストレッチの両方を行い、

ポーズや技などの身体の全体運動時に、双方を同時に使おうと試みる時、

はじめて硬さは“強さ”に変わり、緩さは“柔らかさ”に変わるのです。

 

それが=“柔軟力”であり、しなる身体を作る方法なんだとも思います。

 

なので普段自分が取り組んでいない練習の中に身体を変えるヒントは隠れていますので、

体勢の万全時にぜひトライしてみてください^ ^

 

何か新しい発見があるかもしれません✨

 

以上、Q&Aコーナーでした^ ^

 

こんな感じで、今後もブログに『あるあるQ&A』みたいな感じで、

日頃の疑問にお応えしていくコーナーもやっていきたいと思っております^ ^

 

何かご質問ありましたら、各SNSのDMにて承っておりますので、お寄せくださいませ😆

 

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最後までご購読頂きありがとうございました^ ^

 

 

ではでは、また次回までっっ♩

 

 

 

身体のこと。

今回は、身体のことについてです^ ^

 

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みんなほぼ同じ設計図で作られた人体である限り、そこのゴールは一緒。

 

“肘を曲げるために上腕筋を使わなければ曲げられない。”

というその人体の設計そのものを変える力は、人にはないし、

視覚が色を認識することも、

嗅覚が臭いを察知する役割を担う。

というシステムも、

DNAの設計そのものをいじらなければ、それらを変えることは誰にもできない。

 

人体の扱い方の知識やスキルを極めたその先に辿り着く結果は皆同じであり、

「個」の持つ個性が生かされるのは、

結果へ向かう過程にあるものだと思います。

過程までが一緒では、皆ロボットになってしまいますしね。。。( ̄▽ ̄;)笑。

 

なので、今日は自分のその過程を一部書いていきたいと思います^ ^

 

何事も、まずはその型や形を覚えたり、真似ることから入ることが多いと思いますが、

 

私もその一人で、7年位前にはじめて受けたヨガのクラスで、

先生の綺麗なポーズのお手本を見ながら、

言うことの聞かない自分の身体を必死に動かして真似ていたのは

今でも覚えてます。笑。

 

そして、ヨガスクールに通いはじめても、

やはりその本質は変わりなく、、、

 

色んなアーサナの“型”を覚え、

アジャストという“手技”を真似ながら、

その手助けとなる解剖学の“知識”を学び、

”言葉”という概念に置き換えられたヨーガ哲学の思想の断片をかじっていました。

 

、、、やはり、何から何まで見様見真似で必死に真似ていたのです。笑

 

スクールで学べるものは、

全て型や概念によって形作られた“結果”であり、

中身の“原因”ではない。

今思えば、それがスクールの本質であるのは当たり前なことですが、

その当時は、おバカ過ぎて気付けなかった現実のうちの1つでした。

原因となる答えすらも全て教えてもらえると思っていたのです。笑。

 

でもそんなことは不可能で、

人が人に伝えられるのは、スキルや形などの結果であり、

その中に何が入っているのかまでは教えられない。

これは、自分がインストラクターという職業をするようになって、

より痛感したことの1つでもありました。

 

自分が自転車に乗ってる時どうやってバランスとっているのか?

その感覚を他人に説明できないのと同じで、

100人いたら100通りの個々の感覚があり、

それを言葉という1つの概念に置き換えるには限界がある。

 

そこから憶測できることは

どこまでいっても、自分の経験で獲得した感覚は、

結局全て自分のためにのみ存在している。

というこであり、

その証拠に今でも、

どうやって自分の両手足を動かしているのか?

自転車のバランスをどうとっているのか?

、、、こんな職業についているにも関わらず、そんな簡単なことが他者に伝えられない。

 

それでも、当時、周りの方々から、

「先生の説明、分かりやすい!」

なんて言ってもらえたりした時は、

自分を認めて頂いていることに素直にとても嬉しく、、、

そしてその反面、

死ぬまでそれを追求しても、

1番シンプルなことを伝えることはできない。

という現実に対する虚しさも、心に纏わりついていました。

 

感覚とは、自分で見つけるしかないものであり、

他に“求めるべきものではない”が、

自分の力で見つけた暁には、自分を信じられる強さになって返ってくる。

これは、私達が自分自身に

“求めることのできる見返り”の一つなんだと思います。

 

それをヨガのアーサナに例えるならば、

練習を通して、まず私達が自分の肉体に最初に見つけるべき感覚は、

、、、“バンダ”。

 

※バンダ=アーサナの土台であり、建物に例えたら骨組みの連結部分。

人体でいう、骨と骨を繋ぐ関節周りに存在している、いわゆるインナーマッスルと呼ばれる深層筋。

 

腕を曲げたり脚を動かして歩いたりは、

=その関節周りの筋肉を動かすということであり、

関節周りの筋肉をコントロールすることが

=肉体のコントロールに直結します。

 

もちろん、五体満足であれば、誰でも簡単に腕を曲げたり脚を動かして生きていますが、

動きの中でその関節周りの筋肉が、

確かにそこに存在することを自分で認識でき、

それをどのように動かすことで、描きたいと思う動作を可能にしているのか?

そこまで感覚で認識できて、

はじめてアーサナは、“アーサナ”として意味を成すのです。

 

分かりやすい例で言うと、、、

 

腹筋群なんかは3層くらいありますが、

3層の内、1番奥の層の筋肉だけをピンポイントでコントロール

動かして目的のアーサナを作る。

、、、みたいな感じのことです。笑。

     ↑↑↑

難しそうに聞こえますが、

バンダのコントロールが上手な方は、

普通にできてまうやつです。。。( ̄▽ ̄;)笑笑。

 

なので、そのバンダという土台を認識できない状態で外枠の形だけを作り続けても、

それはどこまで行っても、

“真似事”という枠に収まり続けることになるのです。

 

それはそれでまた別の楽しみ方があるので個人的には全然ありですが、

SNSでよく見かける、

“誰かのポーズを真似て1枚の写真に収める。”

なんかは、その代表と言えると思います。

楽しみながらポーズにチャレンジしているのを拝見していると、

自分もやりたくなる時はよくあります。笑。

 

ただ、骨組みが連結されていない建物は、

安定しないどころかそもそも立たないものですよね。笑。

土台のない外枠だけのポーズもそれと同じで、

それでは、とてもとても不安定なため、

アウターマッスルを力ませることで、

崩れないように保とうと、筋肉は頑張ってくれます。

そしてその結果、筋肉の生むその自らの力みで、

身体は怪我をし、壊れていくのもまた事実です。

 

、、、土台の存在しないポーズには、いつか不具合が必ず生じるということです。

 

少し話ズレましたが、このことからも分かるように、

練習をする時、ポーズの見た目の型を覚えたなら、

まずは、関節を動かした時に当たり前に必ず生じる、

その関節周りの筋肉の働きを自分で見つけ、

そして、認めてやることが何よりも最優先なのです。

 

その感覚は、確かにそこに当たり前に存在しているのですが、

はじめはそれに気付くことさえできないのかもしれない。。。

実際問題、私自身がそうでした。

 

目の前で自分で自分の関節を動かしてるのに、、

その関節周りの筋肉が動いてるのも、“今ここ”で視認してるのに、、、

それでもその筋肉の感覚を全く掴めない。。。

 

目の前にある探し物が、

盲点の如く見つけられない時のようなもどかしさを感じながら、

今まで自分は、自分を観ているようで、

実際は何一つ観ていなかった。。。

ということを認めざるおえない現実を突きつけられた瞬間でもありました。

 

「私のここの関節、ここの筋肉、緩いんですよね~。」とか、

「ここの筋肉、硬いんです~。」

とか、よく言ってましたが、

それは何一つ、自分を認めていることなんかにはなっていないのです。

 

バンダという感覚を、自分の身体にはじめて見つけた時、

今までぐにゃぐにゃに反れてた自分の背骨が1cmすら反れない。。。

それが動し難い現実でしたが、

普通に考えたら、

今までたいして訓練を積んだこともない自分が、

ぐにゃぐにゃであることのほうがおかしかったのです。笑。

 

こんな感じで、

目の前にある現実を長い間見ていないと、

当たり前だったことすら分からなくなるほど、

人はバカになれる。笑。

 

当たり前のことが当たり前に存在している世界が

=“現実”なのに、

私は、言い訳で作った“理想”を

=“現実”だと誤認していた。

ということです。笑。

 

ごまかしなんてのは一切通用しない、それが現実。

1cmすら背骨を動かせれなくなった自分がとても情けなかったですが、やはりそれが現実。笑。

 

振り出しに戻されたのではなく、普通に現実に戻されただけのことで、

今でも、練習する度に現実に戻されることは茶飯事。笑。

新しい感覚を見つけた時は確かに嬉しいが、

その反面、現実に戻される瞬間には、

都度軽い絶望感が付いて回る。笑。

 

多分、この繰り返しが、

誰もが自分の中に抱えている自分の認められない部分を、

現実的に認められるようにするための訓練。

になっているんだとも思います。

 

 

“バンダ”は、物理的に肉体に存在し、

今、自分の身体が何をしているのか?

何をどう動かすことで、その動きを可能にしているのか??

それを感覚として伝えてくれる役割を果たしている。

 

────“自分の肉体と精神を今ここに、

物理的に繋ぎ止めるための集中力の向ける先”。

 

それが、“バンダ”なんだと思います。

 

なので、“バンダ”という感覚を身体に培って、はじめて、“アーサナを練習する。”

というスタートラインに立てるのだと思います。

 

そして、その感覚を自分の身体に見つけるもっとも有効な手段は、

マットの上に立ち続けることではなく、

外で、子供のように好奇心いっぱいに飛んだり跳ねたりすることです。

それだけで、筋肉にバネを取り戻すことができる。

ポーズも、マットさえも要らないんです。

 

バネ=柔軟力であり、

柔軟に対応することのできる筋肉に変えて、

はじめて関節周りを柔軟にコントロールできるからです。

これが、もっともシンプルな答えであり、

最初から分かりきっている当たり前な答えでもあるのだと思いますが、、、

 

それでも私達が、

知識や情報、技術を追い求めるのは、

あらゆる角度からその可能性を自分なりに探求し、オリジナルな過程を追求したい。

という“個”の発する好奇心に他ならないからでもあるのだと思います。

 

 

“もっと、もっと、もっと、

身体の一つ一つの動作が生む働きを追求したい。”

と思うその心の在り方。好奇心。

それが自分の肉体との向き合い方なんだとも思います。

 

ということで、SNSでも告知していました4月から始めるYouTubeは、

バンダの感覚を培う実践方法なども、

アップしていきたいと思っております^ ^

 

最後は、告知になっちゃいましたが、

これからも、どうぞ宜しくお願いします^ ^

 

ではでは、また次回まで^ ^

 

 

 

 

『心』の世界。

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今回は、前回のブログからの引用で、

無責任極まりない自分の行動の一部を冒頭に持ってきました。

そこから色々書いていきたいと思います!笑。

           ↓↓↓

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

『ヨガを始めた当初、

海辺でビギニ姿のねーちゃんがヨガのポーズをキメてる光景を

「カッコいい✨」と思い、それを見上げていた私がいて、、、笑。

そして、そう思う私に、

「それはヨガじゃない!真実じゃない!

悟りを開く修行が本来のヨガだ。」だの、、

「ただのエクササイズだっ!」だのと、

丁寧に教えてくれた偉大なるヨガの先生もいて、、、笑笑。

純粋にかっこいいなぁ✨って思っただけなのに、

それを否定された当初の私はいい気分にはなれませんでした。

 

でも、ヨガを徐々に深めていくと、、、

 

今度は、その先生と同じような感情を抱き、

もっともらしい正論を振りかざしては同じことをほざきながら、

ねーちゃんを見下ろしている自分がいてたのです。笑笑。』

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、、、他者への“憧れ”が“蔑み”に裏返った瞬間です。

 

一つの分野をずっと追いかけていると、

いつの間にか、その培った知識、情報、価値観の持つ存在意義が180度変わることがあります。

 

では、自分はいつから、心の観点を変えたのだろうか、、、?

脳トレゲームにある、

提示された写真画像が徐々に変化していく間違い探しゲームのように、

自分の心さえも、いつ変化したのか?

分からない時がよくある。

 

ヨガに限らず、様々な哲学的教えに、

“自分に正直にあろう。”

、、、なんていうこのセリフは、

私自身もヨガのインストラクターらしく、よく一丁前に講義で話していましたが、

 

、、、だったら、私が私自身に、

はじめて嘘をついたのはいつだったろうか?

自分が自分をはじめて騙したのは、さていつだったか。。。?

 

いつ、正直者から不正直者に変わったか?だなんて、

誰に聞いても知ってるはずがなく、

その答えを持ち合わせているのは、最初から私しかいないのに、

その私自身が、それを自覚できない。

 

なのに、そんな自分が、

ヨガの教えの大切さをもっともらしく説いては、

その素晴らしさに浸りながら、

そう思う自分自身を肯定し、満足さえしている自分がいる。

 

これを、俗に言う

“知ったか”

、、、って言うんだと思います。笑

 

自分は、“知らぬ”間に、

“知ったか”に、

なっていました。

 

いつ、“知ったか”になっていたのか?

そのプロセスすら“知らない”うちに。。。

 

─────“ザ・無知”なわけです。笑笑

 

 

さて、果たして本当に、

正直に生きることが善で、不正直に生きることが悪なのか?

 

“個”というアイデンティティを失いたくないながらも、

“集団”という群れから大きく逸脱することを恐れるジレンマが存在する人間社会の中では、

自他のために自分を偽ることだって必要な時はある。

 

正直に生きることが悪で、不正直に生きることが善。

ということだって普通にあり得るのです。

 

人の数だけ“思い”があり、

他人の確立した“思想”に、自分の絶対の正解を求めるのはナンセンス、、、。

 

それが本当に正しいかだなんて、誰にも証明などできやしない。

 

なのに、その教えの正しさと素晴らしさの証明のために、

奮闘している自分もまたそこにいる。。。

 

そんな矛盾を抱えながら、

それを証明し続けることに、果たして何の意味があるのか?

 

それで、自分は何に報いたいのか?

もしくは、それで、何が報われるというのか?

 

、、、今思えば、

当時の自分はまるで、

ヨガの教えに従順な下僕のようでした。笑。

 

知らない間に、

“正直でなれけばならない。”

という他者の確立した“概念”に支配されていた自分がいてたのです。

 

だから、

 

例えば、

ヨガでできないことを包み隠しながらも、

できる自分を他者の前で演じているインストラクターを、

心のどこかで否定するようになっていました。

 

そうやって“他者”を騙し、“自分”をも騙しながら、

「”他者”のために役に立っていて、“自分”は幸せだ。」

なんて言ったりもしている。

 

そして、その支離滅裂な行為の見返りに、

“自分の居場所の確保”と

“自分の存在価値の認識”

を求めている。

 

『生』への実感とその“証”を無自覚に求めているのです。

 

─────これも、

     人の本質なのだろうか─────。

 

当時、そんな光景を目の当たりにする度に、

不正直者を繰り返し繰り返し心の中で、

そうやって否定していました。

 

そして、それに囚われていた理由なんて一つしかありませんでした。

 

─────私自身がその張本人だったからです。

 

自分のエゴのために他人を騙していたのは私自身であり、

自分のエゴのために他人を騙す人を否定していたのも、

また私自身だったからでした。

 

“自分に正直にあれ。”

という一つの概念から、不正直者を否定する『心』が生まれた私は、

他者を否定した数だけ、等しく自分自身を否定していたのです。

 

そして、その時に気付いたのは、

『心』というやつは、決して否定する対象を選んだりはしない。

嘘つきが他人であろうと、自分であろうと、

そんなの関係ないんです。笑

 

『心』は、その条件を満たした全てのものに、

ただただ作用し反応する非物理的な感覚器官であり、

それ以上でも以下でもない。

自分の『心』だからと言って、

『心』は自分だけを許し、特別視なんかしたりはしないのです。

 

、、、これも『心』の持つ本質の一つなんだと思います。

 

ならば、

こんな簡単なことにすら気付けなかった自分は、

この物理的な世界を通し、

繰り返し繰り返し、今日まで何を見ていたのだろうか?

 

その答えは、、、

とてもシンプルで。。。笑。

 

“できる自分を演じているインストラクター”

という光景を通して私が観ていたのは、

“分かっているつもりを演じていた知ったか”

という自分であり、

その時、

『心』の鏡に映っていたのは、自身への憎悪でした。

 

また、

“自分に正直にあれ。”という、

他者が確立した高潔な思想を、

自分のものさしのように使って他者を測っている、、、

そんな、愚かにも奢っていた私が観ていたのは、

他者に対する優越感ではなく、

それに頼ることで自分の力を保っていた自身の弱さでした。

 

─────つまり、

 

自分の心が囚われていたのは、世界の眩しさでもヨガの高潔な思想でもなかったのです。

 

囚われていたものは、自身に対する憎悪であり、劣等感だったのです。

 

自分が繰り返し観ていたのは、真っ直ぐな事実ではなく、

自分だけは違う!って、

自分に都合の良い現状の解釈から、

自分に都合の良い未来を憶測した、

自分のエゴが激しく曲げた虚実だったのでした。

 

でも、やがて、

“憎悪”や“劣等感”という、

その未処理の感情を自分の心に溜め続けたまま、

それらを原動力に前に進み続けるには、

限界が必ずやってきます。

 

本当の自分を置き去りにしたまま、

毎日繰り返し“知ったか”を演じることには、

いつか必ず疲れてしまうのです。。。笑。

 

だから、私が私自身により正直にいるためには、

まず

「いつから自分を騙していますか?」

と、自分自身に聞いてやることでした。

 

、、、まずは、置き去りにした自分を拾うところから始め直す。

という選択をすることでした。

 

自分を騙すことに慣れてしまった自分いて、

自分に憎悪や劣等感を感じることにも慣れてしまった自分がいて、、

そんな自分を見て見ぬふりをすることにすら慣れてしまった自分がいて、、、笑。

 

こんな感じで、シチュエーションは違っても、

それぞれの記憶が指し示すその本質を掘り下げると、

自分のやってることの選択の連続は、

本当に一緒だな。とも感じます。笑。

本当に、親切なほどに分かりやすい。笑笑。

 

私達は、いつも自分を

繰り返し、繰り返し、繰り返していると思います。

ぐるぐると輪廻の如く、、、延々に。。笑

 

置き去りにしたその日から、

迎えが来るその日まで

自分はその頃のまま、そこに立っている。

 

自分自身がそれに気づき、

違う選択を実際にやってみるまで、

何度だって繰り返し、繰り返される。

 

そうやって、

思考の癖や人格は形成されていく。─────

 

そして、選択の本質とは、

“何を繰り返し、何を繰り返さないか?”

、、、だとも思います。

 

不動の現実を映せる心の在り方を育む方法があるとしたら、

それかな。とも思います。

 

世界を通して、

今日まで自身の心に繰り返し映った感情達と向き合い、

“何を繰り返し、繰り返さないか?”

その選択の連続から得られる自分にしかない、

“自分だけの経験”を大切にする。

ということです。

 

そうすることで、

今日までお借りしてきた他人様のものさしを、

一つずつ返還し、

自然と手放せるようになったら、

その先に、自分だけのオリジナルな個性溢れる不動の軸ができていくんだと思います。

 

それが、自己の“無知”に抗う手段の一つでもあると思います。

 

なので、

今日も繰り返し練習に励みたいと思います💪

 

小さな6畳程の部屋の中で、

練習に夢中になるだけで、

その夢中になっている世界と繋がっている気分を味わえる。

 

今は、この経験こそが、

1番の自分の『生』への実感と“証”となっており、

満足に足る選択のように感じている今日この頃でした。

 

─────というお話でした。

 

 

               、、、終わり。

 

 

今回も、超絶長文を、最後まで読んで頂き、

大変にありがとうございました‼︎

 

ではでは、また次回まで^ ^

 

 

 

私の個人的なお話③

前回、前々回に引き続き、今回も私の個人的なお話③です。

今回で、締めくくれるよう、言語化したいと思います!笑。

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写真は、全然関係ありませんが、パクチー好きです!笑。

 

さて、、、

養成講座担当するようになったあとの自分は、お仕事も順調に頂くようになり、

こんな自分でも、いつの間にかワークショップ開催のお声掛けをしてもらえるようになったりと、、、

 

、、、一言で言えば

“充実した毎日”というやつを送れるようになっていました。

 

インストラクターデビュー時の、1カ月のヨガで頂ける収入は2万円くらいでしたが、

それがいつの間にか、月50万円超えるようにもなっていました。

おかげさまで、レストランでのバイトは辞めて、

ヨガだけで食べていけるようになりましたし、

自営業なので、それなりに自分の時間も確保できるようになり、

自分の中では、有意義に生きるのには、もはや充分すぎるほどの環境と収入だったので、

これで晴れて、ヨガ就活という目的は成功したということになります。

 

※あっ、前々回でもお話したように、

私はヨガをやりたくてヨガを始めた人ではなく、

次の働き口として、“ヨガインストラクター”を選び、そのためにヨガを始めた人でした。

 

でも、その目的が達成される目前から、

いや多分もっと前からだったと思います。。。

自分は気付いていたんだと思います。

それを達成したしところで、

今の自分にとって、その目的はもはや何の意味も価値もないことを。

 

それ以上に欲しいと思うものができたら、それまで大切だったはずのものも思いも、

簡単にゴミへと変わる。笑。

、、これも、避け難い人の本質の一つなんじゃないかと思います。笑。

 

前回でもお話したように、

自分の世界観や価値観の狭さ、そして器の小ささに自己嫌悪したその瞬間から、

目的は、多分すでにすり替えられていたんだと思います。

 

“ヨガインストラクターとして働く。”

という目的から、

他の世界観や価値観、違う視点でもっとこの世界を見たい知りたいという欲と、

小さすぎる自分の器を広げたいという目的へと。。。

 

自分が見ている世界と、隣の人が見ている世界の色は違って当たり前ですが、

では、他人の世界観や価値観を垣間見るとは、

果たしてどんな感覚でどうゆうことなのだろうか。。。?

 

過去に、

ポーズを上達させたければ練習をやればよかったし、

瞑想をしたいなら、さらにその練習の中で呼吸が苦しいほどに自分自身を追い込めば、

研ぎ澄まされた感覚は自然と瞑想状態へと導いてくれた。

解剖学を知りたければ専門学校へ通えばよかったし、

ヨガ哲学を知りたければ、その権威を持つヨギに師事し、学べばいい。

 

、、、知識や経験の獲得は、さほど難しくはない。

 

でも、その時に気づいたのは、

そうやって勉強や練習を延々と実践し続けたとしても、

結局、それはどこまで行っても、

自分の世界観で作り上げた自分の檻の中にいる。

ということには変わりないと。。。

 

、、ならば、檻の外に出て、

他のあらゆる視点からこの世界を垣間見るためには、?

他人の価値観を理解し、自分と他人の壁をなくすためには、、?

私は今から何を実践すればいいのだろうか。。。?

 

、、、また振り出しに戻ったような気分でもありました。。。

 

単発レッスンやワークショップと違って、

資格講義は、生徒さんと長期間を共に過ごすことになる。

なのに、

その講義を聞いてくれている目の前の生徒さん本人の持つ世界観を何も知らずして、

もっとらしいセリフを並べた自分の講義を、

もしくは、

かいつまんだ他人の知識を振り飾した講義を毎度発表したところで、

それはアウトプットと言えるのだろうか?

 

、、、そもそも、アウトプットとはなんなのだろうか。。。?

(もはや、ここまできたら、思考の迷宮入りですが、、、笑。)

 

でも、私の望むアウトプットは、

少なくとも、

相手を、自分の持つ世界観や価値観に染め上げることではない。

ということだけは確かでした。

 

どんなにヨガを極めようとも、

自分の学んだヨガを一方的に伝え、悠長に語りかけることはできたとしても、

“自分以外の立場に立ち、違う視点から物事を見たり感じたり考察する。”

という実践を一度も練習したことのない私は、

その分野においては誰よりも

初心者でありピカピカの一年生だったのです。

 

でも、物事の全体像を理解するとは、

360度違う視点からその物事を考察することであり、

それが

=物事の本質を知る術。であったことを、

私はちゃんとヨガスクールの哲学講義で先生から学んでいました。

(「群盲象を評す」という哲学のお話を。)

ならば、自分の本質だって、360度直視するためには、

自分以外の客観的視線に立つという実践を何度も何度も繰り返し練習しない限り、

分かりっこなんてない。

主観的立場のみで自分自身を毎日繰り返し生き続ける限り、

自分のことでさえ、死ぬその日まで分かったつもりにしかなれないのです。。。

 

「つもり」では、到底、自己コントロールなんて無理で、

だから、自分の感情にさえ振り回される。

だから、毎日練習してるのにも関わらず、

自分の肉体ですら、自由自在に扱うことができない。

その時、はじめて、

自由に使える時間と環境とお金がいくらあったとしても、

自分は“不自由“なんだ。ということを痛感させられました。

 

ヨガを始めた当初、

海辺でビギニ姿のねーちゃんがヨガのポーズをキメてる光景を

「カッコいい✨」と思い、それを見上げていた私がいて、、、笑。

そして、そう思う私に、

「それはヨガじゃない!真実じゃない!

悟りを開く修行が本来のヨガだ。」だの、、

「ただのエクササイズだっ!」だのと、

丁寧に教えてくれた偉大なるヨガの先生もいて、、、笑笑。

純粋にかっこいいなぁ✨って思っただけなのに、

それを否定された当初の私はいい気分にはなれませんでした。

 

でも、ヨガを徐々に深めていくと、、、

 

今度は、その先生と同じような感情を抱き、

もっともらしい正論を振りかざしては同じことをほざきながら、

ねーちゃんを見下ろしている自分がいてたのです。笑笑。

そんな無責任極まりない自分の愚かな行動に

もはや笑うしかありませんでした。。。

 

感情に手綱を引いてる“つもり”の自分が、

その自分の手綱に見事に振り回されているのがよく分かります。笑。

 

それは、もはや“手綱”とは言わないのかもしれない。

“手錠”といったほうが、

自分の不自由さをこの上なく体現してくれている相応しい単語だとも思いました。笑。

 

では、なぜ、そんな他人の行動一つに心乱され囚われる。

という現象が自分に起こったのか。。。?

 

答えは至ってシンプルで、

いつだって、相手の持つ世界観や価値観を

知らないから。

、、知ろうともしないから。

自分の経験や身につけた知識や情報達で作り上げた自分の世界観の中で、

相手を推し測っていたから。

自分の檻の中に、相手の世界観なんてあるはずもないのに、、、。笑。

まさに、檻の中の囚われ人なわけです。笑笑。

 

、、、こんな簡単なことも分からなかった自分は、改めてバカだとも思います。笑

 

でも、おかげさまで、事あるごとに、

目の前の相手の立場に立つ練習を繰り返し実践することが身に付いて、

 

そして、その練習から得られた恩恵は、、、

 

他者への“憧れ”や“蔑み”の感情とは全く違う、

ビギニ姿のねーちゃん、全然ありやん!ってゆう受け入れの感情と(笑)、

(...そうやって、受け皿を大きくしていくことで、心の器は育つんだと思います。)

 

他の立場から見た自分の行動選択は、必ずしも自分にとって最善だとは限らない。

ということへの実感と、、

(ヨガで怪我する原因は大体これかなとも思います。笑)

 

それを選択する自分の感情の裏に隠されたもう一つの思いの直視。

が、少しだけできるようになりました。

 

たとえば、、、

“自分のことを望んでいない場には居たくない。”

という感情があったなら、

そう思うためには、本当は、

 

“周りから望まれる人間で在りたい。”

と願うもう一つの思いがすでに存在しているからですし、

 

自分を偽ってまで“何か”を成そうとしているであれば、

それはもうすでに、その“何か”の奴隷となり、染められ囚われている自分がいるから。

 

、、、という具合に。

 

でなければ、その感情や行動は、そもそも生まれないし成立しない。

 

 

なんてたって、双方あっての本質ですから。

主観と客観、表裏一体ってやつですね。

自分の本質の手がかりも、そうやって紐解くんだと思います。

 

そして、自分でも、ヨガでも、何でもそうですが、

それらの中にある本質を理解し、自由自在にコントロールする方法は、

やはり、限りなく自然体の自分でいること。

 

身につけた知識や価値観、経験を介して、他人や自分を観ることも必要ですが、

 

でも、それは先入観を生むかもしれない、、、。

 

だから、それらを介さずに、

何にもない自然体の自分で、自分自身や他人、ヨガや仕事に趣味とかetc...

自分の生きる世界を観ることも等しく必要。

 

そうすることでしか得られないことが沢山ある。

 

そして、

表と裏、360度の全てを観れるようになったら、

あとはコントロールするのに、そう時間はかからないと思います^ ^

 

今思えば、それを実感できたのが、一番の恩恵だったとも思います^ ^

 

 

そんなこんなで、今に至るのですが、

もちろん今でも、正直、自分の本質ですらわからん部分沢山あります。笑。

 

なので、ヨガの本質を実感するなんて、まだまだできるはずがなく、、( ̄▽ ̄;)

 

そのために今日も練習に励みたいと思います💪

 

 

 

               、、、終わり。

 

 

超絶長文を、最後まで読んで頂き、大変にありがとうございました‼︎

 

今回で締めくくれて良かったです!笑。

 

また、ちょくちょくこんな感じで、ブログ書いていきたいと思いますので、

今後とも、どうぞ宜しくお願いします^ ^

 

ではでは、また次回まで^ ^

 

 

 

 

 

私の個人的なお話②

前回に引き続いて、今日は、養成講座担当した後のお話です。

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私は、RYT200のヨガスクールに通うと同時にヨガを始めた人でした。

 

20歳から7年間勤めていたアパレルの会社を辞めて、次は何しよ~かな~!?

と考えながら携帯ポチポチしてた時に、目にした広告が、

“3ヶ月でヨガインストラクターになる!”でした。

 

小さい頃、バレエをかじってたこともあり、

デスクワーク系の仕事よりも、

身体を動かす系の仕事のほうが、楽しく続けられそう!!

、、、それに何よりたった3ヶ月でなれるならやろ~♪

という軽いノリで、申し込んだのが始まりでした。笑。

 

なので、ヨガをやりたくてヨガを始めたわけではなく、

次の就職先のためにヨガを始めた。という感じですね。

 

現役ヨガインストラクターさんの中には、こんな感じで、

私と同じ境遇の方もいるんじゃないかな!?と思います。笑。

まだ、ヨガの恩恵も、その恩恵を受けるための練習の辛さも知らないフレッシュな無知な自分だからこそ、

できた選択だったと思います。笑。

 

当時通っていたヨガスクールでお世話になった先生方は今でも尊敬で、

見せかけでは到底できない難易度の高いアーサナも軽々と熟すような先生方でした。

 

それに比べて自分は、

前屈が硬いタイプの人代表で生徒の皆んなの前で前屈したり

、、、してました。笑。

 

「こんなんで、3ヶ月後に、インストラクターの仲間入りなんて、できるわけないやん!」

「えっ?あの広告、嘘やろっっ⁈」

、、、って思ったほどにです。笑笑。

 

できない自分を、広告のせいにするという責任転換法は、

今思えば、思考ズレすぎの頭悪すぎで、

笑うしかありません。。。www

 

一流のスポーツ選手だって、

小さい頃からずっと練習をしてきた土台があってこその一流で、

その実践経験の先に

“人に教える”

という行為があるはずなのに、、、

 

お金さえ払えば私のようなポンコツでも取得できる

資格ビジネスというシステムの見え透いた裏も分かっていなかった自分は、

本当に世間知らずのイタイ奴だとも思いましたwww

 

それでも、そんなことすら当時分かっていない自分にとっての

養成講座を担当できるような講師とは、

やはり、その10年20年、練習を積んできた先生方がイメージの全てでした。

 

だから、どうしても自分の未熟さが許せませんでした。

もちろん、ヨガはじめた時~養成講座やるまでの間も、

インストラクター業やりながら、マイソールに通ったり、

哲学や解剖学などの養成コースにも参加しては、

変わらない自分の身体の原因追求を延々と続けていました。

昼間インストラクターで稼いだお金は、

全て練習代と勉強代に消えて、時にはオリコで教育ローンも組んだりして。。笑。

夜は、知人のイタリアンレストランで働いては生活費を稼ぎながらの日常でした。

頭の中で、いつもいつも、

“どうやったら、もっと柔らかくなれるのか?”

“どうやったら、もっと上達できるのか?”

“どうやったら、あんなすごいことができる先生になれるのか?”

、、、そればかりを考えてました。

その答えをくれるような養成コースがあったなら、何でものめり込んでました。

、、、でも、最終的に辿り着く結論は、

やはり、圧倒的な基礎練習量の差であり、土台であり、その差を埋める方法は、

“練習”しかなかったのです。

、、、当たり前なんですけど、、

、、、なんせ、めっちゃバカだったから。。。。笑笑。

 

そして、その練習や勉強に拍車をかけたのが、養成講座の仕事の依頼でした。

 

このままでは、アカン!!と思い、

(何がアカン?のも考えず、、、笑。)

解剖学を学ぶためにスポーツトレーナーの夜間専門学校にも通うようになり、

さらに、瞑想の練習は苦手だったので、超越瞑想のコースにも通い。。。笑。

 

マイソール行くのを辞めて、

そこから半年間くらいは、毎日2時間、呼吸と瞑想ばかりするようになりました。

「脳へどれだけ物理的に酸素を送れるか?

それで、瞑想の質は全て変わる。」

と学んだ私にとって、

本の中の知識でしか知らなかった哲学的に感じた瞑想は、

とても科学的なものへと変わった瞬間でもありました。

 

“知らない。と、知っている。では、まるで違う。”

という格言は確かにその通りだと思いますが、

 

“知っていてる”のと、“体験している。”

というのは、それ以上に違っていました。

 

どれくらい違うかというと、、、

“知っている”だけなんて、

“無知”となんら変わらない

、、と思えるほどに。。でした。

どれだけ、知識や情報をインプットしても、

体験の前には、無力そのものでした。

自分は、今まで何を学んでいたのだろうか??と、

0になったような気もするくらいでした。

 

なんせ、瞑想で“走馬灯を見る。”なんて、

文字通り、はじめての体験だったからです。

 

指導者の元、呼吸を吸った後のクンバカ(止息)で、意識は飛び、

気がついたら、映画のスクリーンのような大画面が目の前に広がっていて、

ものすごいスピードで映像がめまぐるしく早送りされているをただ観ていました。

 

、、、どれくらい観たのだろうか。。?

感覚的には、1年以上も時間が経ったように思えるほどの無秩序な映像の情報量を、

ただ観ていました。

もちろん、抗うことはできません。

そして、その映像が今度は、

だんだんとスローモーションになっていくと、

意識も徐々に戻ってきて、我に帰った自分は、

全身の筋肉が、立てないほどに弛緩しきっていました。

 

実際には、どれくらい時間が経った?と思い、時計を見ると、、、

たったの3秒程度しか経っていませんでした。

 

、、、たった3秒のクンバカでか。。。と思いつつ、

たった3秒なのに、1年以上もそこにいた気がしましたし、

終わらない夢を、延々と観ているようでもありました。

3秒に濃縮された1年分以上の情報量は、明らかに容量オーバーで、

それに酔ってしまい、めちゃくちゃ気持ち悪かったのを覚えています。

 

心も身体も、準備が足りてなさすぎていたのは、明白でした。

そして何より、走馬灯って、本当にあるんだ。。。

とも思いました。笑。

潜在意識上にある無秩序で無意味な情報の断片の巣窟のようなものなんじゃないかと思います。

 

何が自分に起こったのかを理解するには時間差が必要で、

あとで分かったのは、

人間が死ぬ寸前などの危機的状況に陥った時に観るやつで、

 

簡単に一言で言うと、、

軽い危篤状態ってやつでしたね。笑笑。

 

ただ、複数回ほどのその体験のおかげで、それまでは、

時間は、過去から未来へ一定のスピードで直線的に流れている。

と信じきっていた私にとって、時間に対する概念が180度変わった瞬間でもありました。

 

時間は、今を測りうる絶対的な不変の尺度ではなく、

曲線的かつ曖昧で、変化し得る不確かな基準の一つに過ぎないと。。。

 

自分の信じていたものや、築いてきた価値観や世界観は、

限られた世界にのみ通用する手段であり、

武器だったと。。。

 

お隣さんの畑に通用するとは限らないんです。笑

なのに、何を根拠に、

私は、自分の思想がどこにでも通用するなんて、思っていたのだろう?

と、自分の浅はかさを目の当たりにした瞬間でもありました。

 

世界がそんな狭いわけないやん!!って感じですが、

こんな簡単なことに気づくのに、

費やした時間と労力は、

まさに、自分の世間知らずのバカさ加減に比例しているなぁ~とも思いました。笑笑。

 

人は、誰しも自分の価値観や世界観を持っています。

そして、考え方が異なるってだけで、他人を否定し、攻撃をする。

ただそれだけの理由で、心が不愉快になる。。。

なんとも、めんどくさい生き物なわけですwww

 

でも、他の価値観や世界観を受け入れることは、

多分そんなに難しいことではないはずです。

 

自分の殻を破ることで、はじめて他人の価値観を受け入れることができる。

そして、その価値観に染まることと、

それを受け入れることは、全く別のことでもある。

 

他の価値観と向き合い、他人と向き合うことでしか、

自分がどんな人間であるのか?

という答えは得られない。

その“自己への客観視”は、物事の本質を観る能力そのものであり、

“瞑想”という概念の本質の一つでもあると思います。

「他人と繋ぐ。」とは、こうゆうことかぁ~。

と、腑に落としたそこからの自分の課題は、

いかに他人と、

目の前の生徒さんと、

目の前のお客さんと向き合うか?

へと移行していきました。

 

今まで関わってきた人、

もしくはこれから関わっていくであろう目の前にいる人達は、

一体どんな思想を持っていて、

何に重きを置き、

物事の優先順位の1番に何があるのか?

または、この世界の何に囚われているのか?

 

、、、そうやって外の世界を直視することは、

バカでズレた脳を持っていた私自身のいい矯正にもなったんじゃないか。

、、、とも思います。笑笑。

 

そして、それが

“アウトプットの本質”

なんじゃないか。。。とも思いました。

 

そんなこんなで、

養成スクールの先生に必要な基礎知識と、

必要最低限の実践体験は、

徐々に備わっていった感じでした。

 

、、、ということで、

またまたこれ以上書いたら超絶長文になるので(笑)、

続きは、次回書きたいと思います^ ^

 

では、また次回まで。