白 夕雨の日記

頭の中の妄想日記。とヨガのこと。

私の個人的なお話③

前回、前々回に引き続き、今回も私の個人的なお話③です。

今回で、締めくくれるよう、言語化したいと思います!笑。

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写真は、全然関係ありませんが、パクチー好きです!笑。

 

さて、、、

養成講座担当するようになったあとの自分は、お仕事も順調に頂くようになり、

こんな自分でも、いつの間にかワークショップ開催のお声掛けをしてもらえるようになったりと、、、

 

、、、一言で言えば

“充実した毎日”というやつを送れるようになっていました。

 

インストラクターデビュー時の、1カ月のヨガで頂ける収入は2万円くらいでしたが、

それがいつの間にか、月50万円超えるようにもなっていました。

おかげさまで、レストランでのバイトは辞めて、

ヨガだけで食べていけるようになりましたし、

自営業なので、それなりに自分の時間も確保できるようになり、

自分の中では、有意義に生きるのには、もはや充分すぎるほどの環境と収入だったので、

これで晴れて、ヨガ就活という目的は成功したということになります。

 

※あっ、前々回でもお話したように、

私はヨガをやりたくてヨガを始めた人ではなく、

次の働き口として、“ヨガインストラクター”を選び、そのためにヨガを始めた人でした。

 

でも、その目的が達成される目前から、

いや多分もっと前からだったと思います。。。

自分は気付いていたんだと思います。

それを達成したしところで、

今の自分にとって、その目的はもはや何の意味も価値もないことを。

 

それ以上に欲しいと思うものができたら、それまで大切だったはずのものも思いも、

簡単にゴミへと変わる。笑。

、、これも、避け難い人の本質の一つなんじゃないかと思います。笑。

 

前回でもお話したように、

自分の世界観や価値観の狭さ、そして器の小ささに自己嫌悪したその瞬間から、

目的は、多分すでにすり替えられていたんだと思います。

 

“ヨガインストラクターとして働く。”

という目的から、

他の世界観や価値観、違う視点でもっとこの世界を見たい知りたいという欲と、

小さすぎる自分の器を広げたいという目的へと。。。

 

自分が見ている世界と、隣の人が見ている世界の色は違って当たり前ですが、

では、他人の世界観や価値観を垣間見るとは、

果たしてどんな感覚でどうゆうことなのだろうか。。。?

 

過去に、

ポーズを上達させたければ練習をやればよかったし、

瞑想をしたいなら、さらにその練習の中で呼吸が苦しいほどに自分自身を追い込めば、

研ぎ澄まされた感覚は自然と瞑想状態へと導いてくれた。

解剖学を知りたければ専門学校へ通えばよかったし、

ヨガ哲学を知りたければ、その権威を持つヨギに師事し、学べばいい。

 

でも、その時に気づいたのは、

そうやって勉強や練習を延々と実践し続けたとしても、

結局、それはどこまで行っても、

自分の世界観で作り上げた自分の檻の中にいる。

ということには変わりないと。。。

 

、、ならば、檻の外に出て、

他のあらゆる視点からこの世界を垣間見るためには、?

他人の価値観を理解し、自分と他人の壁をなくすためには、、?

私は今から何を実践すればいいのだろうか。。。?

 

、、、また振り出しに戻ったような気分でもありました。。。

 

単発レッスンやワークショップと違って、

資格講義は、生徒さんと長期間を共に過ごすことになる。

なのに、

その講義を聞いてくれている目の前の生徒さん本人の持つ世界観を何も知らずして、

もっとらしいセリフを並べた自分の講義を、

もしくは、

かいつまんだ他人の知識を振り飾した講義を毎度発表したところで、

それはアウトプットと言えるのだろうか?

 

、、、そもそも、アウトプットとはなんなのだろうか。。。?

(もはや、ここまできたら、思考の迷宮入りですが、、、笑。)

 

でも、私の望むアウトプットは、

少なくとも、

相手を、自分の持つ世界観や価値観に染め上げることではない。

ということだけは確かでした。

 

どんなにヨガを極めようとも、

自分の学んだヨガを一方的に伝え、悠長に語りかけることはできたとしても、

“自分以外の立場に立ち、違う視点から物事を見たり感じたり考察する。”

という実践を一度も練習したことのない私は、

その分野においては誰よりも

初心者でありピカピカの一年生だったのです。

 

でも、物事の全体像を理解するとは、

360度違う視点からその物事を考察することであり、

それが

=物事の本質を知る術。であったことを、

私はちゃんとヨガスクールの哲学講義で先生から学んでいました。

(「群盲象を評す」という哲学のお話を。)

ならば、自分の本質だって、360度直視するためには、

自分以外の客観的視線に立つという実践を何度も何度も繰り返し練習しない限り、

分かりっこなんてない。

主観的立場のみで自分自身を毎日繰り返し生き続ける限り、

自分のことでさえ、死ぬその日まで分かったつもりにしかなれないのです。。。

 

「つもり」では、到底、自己コントロールなんて無理で、

だから、自分の感情にさえ振り回される。

だから、毎日練習してるのにも関わらず、

自分の肉体ですら、自由自在に扱うことができない。

その時、はじめて、

自由に使える時間と環境とお金がいくらあったとしても、

自分は“不自由“なんだ。ということを痛感させられました。

 

ヨガを始めた当初、

海辺でビギニ姿のねーちゃんがヨガのポーズを決めてる光景を

「カッコいい✨」と思い、それを見上げていた私がいて、、、笑。

そして、そう思う私に、

「それはヨガじゃない!真実じゃない!

悟りを開く修行が本来のヨガだ。」だの、、

「ただのエクササイズだっ!」だのと、

丁寧に教えてくれた偉大なるヨガの先生もいて、、、笑笑。

純粋にかっこいいなぁ✨って思っただけなのに、

それを否定された当初の私はいい気分にはなれませんでした。

 

でも、ヨガを徐々に深めていくと、、、

 

今度は、その先生と同じ感情を抱き、

もっともらしい正論を振りかざしては同じことをほざきながら、

ねーちゃんを見下ろしている自分がいてたのです。笑笑。

そんな無責任極まりない自分の愚かな行動に

もはや笑うしかありませんでした。。。

 

感情に手綱を引いてる“つもり”の自分が、

その自分の手綱に見事に振り回されているのがよく分かります。笑。

 

それは、もはや“手綱”とは言わないのかもしれない。

“手錠”といったほうが、

自分の不自由さをこの上なく体現してくれている相応しい単語だとも思いました。笑。

 

では、なぜ、そんな他人の行動一つに心乱され囚われる。

という現象が自分に起こったのか。。。?

 

答えは至ってシンプルで、

いつだって、相手の持つ世界観や価値観を

知らないから。

、、知ろうともしないから。

自分の経験や身につけた知識や情報達で作り上げた自分の世界観の中で、

相手を推し測っていたから。

自分の檻の中に、相手の世界観なんてあるはずもないのに、、、。笑。

まさに、檻の中の囚われ人なわけです。笑笑。

 

、、、こんな簡単なことも分からなかった自分は、改めてバカだとも思います。笑

 

でも、おかげさまで、事あるごとに、

目の前の相手の立場に立つ練習を繰り返し実践することが身に付いて、

 

そして、その練習から得られた恩恵は、

ビギニ姿のねーちゃん、全然ありやん!ってゆう受け入れの感情と(笑)、

 

他の立場から見た自分の行動選択は、必ずしも自分にとって最善だとは限らない。

ということへの実感と、、

 

それを選択する自分の感情の裏に隠されたもう一つの思いの直視。

が、少しだけできるようになりました。

 

たとえば、、、

“自分のことを望んでいない場には居たくない。”

という感情があったなら、

そう思うためには、本当は、

 

“周りから望まれる人間で在りたい。”

と願うもう一つの思いがすでに存在しているからですし、

 

自分を偽ってまで“何か”を成そうとしているであれば、

それはもうすでに、その“何か”の奴隷となり、染められ囚われているから。

 

、、、という具合に。

 

でなければ、その感情や行動は、そもそも生まれないし成立しない。

 

 

なんてたって、双方あっての本質ですから。

表裏一体ってやつですね。

自分の本質の手がかりも、そうやって紐解くんだと思います。

 

そして、自分でも、ヨガでも、何でもそうですが、

それらの中にある本質を理解し、自由自在にコントロールする方法は、

やはり、限りなく自然体の自分でいること。

 

身につけた知識や価値観、経験を介して、他人や自分を観ることも必要ですが、

 

でも、それは先入観を生むかもしれない、、、。

 

だから、それらを介さずに、

何にもない自然体の自分で、自分自身や他人、ヨガや仕事に趣味とかetc...

自分の生きる世界を観ることも等しく必要。

 

そうすることでしか得られないことが沢山ある。

 

今思えば、それを実感できたのが、一番の恩恵だったとも思います^ ^

 

そんなこんなで、今に至るのですが、

もちろん今でも、正直、自分の本質ですらわからん部分沢山あります。笑。

 

なので、ヨガの本質を実感するなんて、まだまだできるはずがなく、、( ̄▽ ̄;)

 

そのために今日も練習に励みたいと思います💪

 

 

 

               、、、終わり。

 

 

超絶長文を、最後まで読んで頂き、大変にありがとうございました‼︎

 

今回で締めくくれて良かったです!笑。

 

また、ちょくちょくこんな感じで、ブログ書いていきたいと思いますので、

今後とも、どうぞ宜しくお願いします^ ^

 

ではでは、また次回まで^ ^

 

 

 

 

 

私の個人的なお話②

前回に引き続いて、今日は、養成講座担当した後のお話です。

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私は、RYT200のヨガスクールに通うと同時にヨガを始めた人でした。

 

20歳から7年間勤めていたアパレルの会社を辞めて、次は何しよ~かな~!?

と考えながら携帯ポチポチしてた時に、目にした広告が、

“3ヶ月でヨガインストラクターになる!”でした。

 

小さい頃、バレエをかじってたこともあり、

デスクワーク系の仕事よりも、

身体を動かす系の仕事のほうが、楽しく続けられそう!!

、、、それに何よりたった3ヶ月でなれるならやろ~♪

という軽いノリで、申し込んだのが始まりでした。笑。

 

なので、ヨガをやりたくてヨガを始めたわけではなく、

次の就職先のためにヨガを始めた。という感じですね。

 

現役ヨガインストラクターさんの中には、こんな感じで、

私と同じ境遇の方もいるんじゃないかな!?と思います。笑。

まだ、ヨガの恩恵も、その恩恵を受けるための練習の辛さも知らないフレッシュな無知な自分だからこそ、

できた選択だったと思います。笑。

 

当時通っていたヨガスクールでお世話になった先生方は今でも尊敬で、

見せかけでは到底できない難易度の高いアーサナも軽々と熟すような先生方でした。

 

それに比べて自分は、

前屈が硬いタイプの人代表で生徒の皆んなの前で前屈したり

、、、してました。笑。

 

「こんなんで、3ヶ月後に、インストラクターの仲間入りなんて、できるわけないやん!」

「えっ?あの広告、嘘やろっっ⁈」

、、、って思ったほどにです。笑笑。

 

できない自分を、広告のせいにするという責任転換法は、

今思えば、思考ズレすぎの頭悪すぎで、

笑うしかありません。。。www

 

一流のスポーツ選手だって、

小さい頃からずっと練習をしてきた土台があってこその一流で、

その実践経験の先に

“人に教える”

という行為があるはずなのに、、、

 

お金さえ払えば私のようなポンコツでも取得できる

資格ビジネスというシステムの見え透いた裏も分かっていなかった自分は、

本当に世間知らずのイタイ奴だとも思いましたwww

 

それでも、そんなことすら当時分かっていない自分にとっての

養成講座を担当できるような講師とは、

やはり、その10年20年、練習を積んできた先生方がイメージの全てでした。

 

だから、どうしても自分の未熟さが許せませんでした。

もちろん、ヨガはじめた時~養成講座やるまでの間も、

インストラクター業やりながら、マイソールに通ったり、

哲学や解剖学などの養成コースにも参加しては、

変わらない自分の身体の原因追求を延々と続けていました。

昼間インストラクターで稼いだお金は、

全て練習代と勉強代に消えて、時にはオリコで教育ローンも組んだりして。。笑。

夜は、知人のイタリアンレストランで働いては生活費を稼ぎながらの日常でした。

頭の中で、いつもいつも、

“どうやったら、もっと柔らかくなれるのか?”

“どうやったら、もっと上達できるのか?”

“どうやったら、あんなすごいことができる先生になれるのか?”

、、、そればかりを考えてました。

その答えをくれるような養成コースがあったなら、何でものめり込んでました。

、、、でも、最終的に辿り着く結論は、

やはり、圧倒的な基礎練習量の差であり、土台であり、その差を埋める方法は、

“練習”しかなかったのです。

、、、当たり前なんですけど、、

、、、なんせ、めっちゃバカだったから。。。。笑笑。

 

そして、その練習や勉強に拍車をかけたのが、養成講座の仕事の依頼でした。

 

このままでは、アカン!!と思い、

(何がアカン?のも考えず、、、笑。)

解剖学を学ぶためにスポーツトレーナーの夜間専門学校にも通うようになり、

さらに、瞑想の練習は苦手だったので、超越瞑想のコースにも通い。。。笑。

 

マイソール行くのを辞めて、

そこから半年間くらいは、毎日2時間、呼吸と瞑想ばかりするようになりました。

「脳へどれだけ物理的に酸素を送れるか?

それで、瞑想の質は全て変わる。」

と学んだ私にとって、

本の中の知識でしか知らなかった哲学的に感じた瞑想は、

とても科学的なものへと変わった瞬間でもありました。

 

“知らない。と、知っている。では、まるで違う。”

という格言は確かにその通りだと思いますが、

 

“知っていてる”のと、“体験している。”

というのは、それ以上に違っていました。

 

どれくらい違うかというと、、、

“知っている”だけなんて、

“無知”となんら変わらない

、、と思えるほどに。。でした。

どれだけ、知識や情報をインプットしても、

体験の前には、無力そのものでした。

自分は、今まで何を学んでいたのだろうか??と、

0になったような気もするくらいでした。

 

なんせ、瞑想で“走馬灯を見る。”なんて、

文字通り、はじめての体験だったからです。

 

指導者の元、呼吸を吸った後のクンバカ(止息)で、意識は飛び、

気がついたら、映画のスクリーンのような大画面が目の前に広がっていて、

ものすごいスピードで映像がめまぐるしく早送りされているをただ観ていました。

 

、、、どれくらい観たのだろうか。。?

感覚的には、1年以上も時間が経ったように思えるほどの無秩序な映像の情報量を、

ただ観ていました。

もちろん、抗うことはできません。

そして、その映像が今度は、

だんだんとスローモーションになっていくと、

意識も徐々に戻ってきて、我に帰った自分は、

全身の筋肉が、立てないほどに弛緩しきっていました。

 

実際には、どれくらい時間が経った?と思い、時計を見ると、、、

たったの3秒程度しか経っていませんでした。

 

、、、たった3秒のクンバカでか。。。と思いつつ、

たった3秒なのに、1年以上もそこにいた気がしましたし、

終わらない夢を、延々と観ているようでもありました。

3秒に濃縮された1年分以上の情報量は、明らかに容量オーバーで、

それに酔ってしまい、めちゃくちゃ気持ち悪かったのを覚えています。

 

心も身体も、準備が足りてなさすぎていたのは、明白でした。

そして何より、走馬灯って、本当にあるんだ。。。

とも思いました。笑。

潜在意識上にある無秩序で無意味な情報の断片の巣窟のようなものなんじゃないかと思います。

 

何が自分に起こったのかを理解するには時間差が必要で、

あとで分かったのは、

人間が死ぬ寸前などの危機的状況に陥った時に観るやつで、

 

簡単に一言で言うと、、

軽い危篤状態ってやつでしたね。笑笑。

 

ただ、複数回ほどのその体験のおかげで、それまでは、

時間は、過去から未来へ一定のスピードで直線的に流れている。

と信じきっていた私にとって、時間に対する概念が180度変わった瞬間でもありました。

 

時間は、今を測りうる絶対的な不変の尺度ではなく、

曲線的かつ曖昧で、変化し得る不確かな基準の一つに過ぎないと。。。

 

自分の信じていたものや、築いてきた価値観や世界観は、

限られた世界にのみ通用する手段であり、

武器だったと。。。

 

お隣さんの畑に通用するとは限らないんです。笑

なのに、何を根拠に、

私は、自分の思想がどこにでも通用するなんて、思っていたのだろう?

と、自分の浅はかさを目の当たりにした瞬間でもありました。

 

世界がそんな狭いわけないやん!!って感じですが、

こんな簡単なことに気づくのに、

費やした時間と労力は、

まさに、自分の世間知らずのバカさ加減に比例しているなぁ~とも思いました。笑笑。

 

人は、誰しも自分の価値観や世界観を持っています。

そして、考え方が異なるってだけで、他人を否定し、攻撃をする。

ただそれだけの理由で、心が不愉快になる。。。

なんとも、めんどくさい生き物なわけですwww

 

でも、他の価値観や世界観を受け入れることは、

多分そんなに難しいことではないはずです。

 

自分の殻を破ることで、はじめて他人の価値観を受け入れることができる。

そして、その価値観に染まることと、

それを受け入れることは、全く別のことでもある。

 

他の価値観と向き合い、他人と向き合うことでしか、

自分がどんな人間であるのか?

という答えは得られない。

その“自己への客観視”は、物事の本質を観る能力そのものであり、

“瞑想”という概念の本質の一つでもあると思います。

「他人と繋ぐ。」とは、こうゆうことかぁ~。

と、腑に落としたそこからの自分の課題は、

いかに他人と、

目の前の生徒さんと、

目の前のお客さんと向き合うか?

へと移行していきました。

 

今まで関わってきた人、

もしくはこれから関わっていくであろう目の前にいる人達は、

一体どんな思想を持っていて、

何に重きを置き、

物事の優先順位の1番に何があるのか?

または、この世界の何に囚われているのか?

 

、、、そうやって外の世界を直視することは、

バカでズレた脳を持っていた私自身のいい矯正にもなったんじゃないか。

、、、とも思います。笑笑。

 

そして、それが

“アウトプットの本質”

なんじゃないか。。。とも思いました。

 

そんなこんなで、

養成スクールの先生に必要な基礎知識と、

必要最低限の実践体験は、

徐々に備わっていった感じでした。

 

、、、ということで、

またまたこれ以上書いたら超絶長文になるので(笑)、

続きは、次回書きたいと思います^ ^

 

では、また次回まで。

 

 

 

 

 

個人的な私のお話です。

今日は、私の個人的なお話です。

 


私は、0からヨガやりはじめて、今6年目です。

 

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ヨガ歴3年目で、訳ありで養成講座を担当することになって、

 

それまでは気にしてなかった、

自分の"肩書き“みたいなのを、はじめて気にした瞬間でした。

"インストラクター”ではなく、、"指導者”。。

なんて、紹介されるのです。笑。

「たった3年で、どう人を導くねん!?」

って、内心思いながら、

「いや、これはチャンスだ!

やるしかない!」

と、自分の中にジレンマを抱えながら、

養成講座をするって選択しました。

 


やってて最初に思ったことは、人を導くって、、、難しい。

だって、まだ自分自身でさえ導けていないのに。。

ちなみに、この思いは、今でも変わってません。笑。

道を指し示し、そして導く。。。

、、、なんてのは、

人生30年くらいしか生きていない自分が果たせる役割りとしては、重すぎました。

 


でも、その未熟さは、”指導者”という肩書きをもらった瞬間に、

恥ずかしさに変わって、、、

自分の中の意地とゆうか、

プライドが許せなくなったんです。

そのプライドは、守るべき誇り高きものではなく、

自分の未熟さを知られたくない。

バカにされたくない。

周りに認められたい。。、

、、、というクソガキみたいなクソなエゴでした。笑。

 


、、それなら、自分が納得いくまでその仕事を受けなければいい。

まずは、自分を認めてやれるまで鍛錬し続ければいい。

、、て、その時思うことができたなら、

今違った未来になっただろうな。。。

、、、とも思います。

 


でも、自分は、そんなできた人間ではありませんでした。。。

 

人は、何かを決断する時、

自分の意志で選択しているように見えて、

大半は、周りの空気やその環境に影響されたり、

強制されて選択させられていることがほとんどだと思います。

 

本当の意味で、自分の自由意志で選択している人ってゆうのは、

今それを選択しやっていることに対して、

いちいち理由づけを必要としないし、

「ただやりたいから。」

、、ってくらいにしか思っていない。

気持ちいいくらいにめっちゃシンプルです。笑

 

理由づけがないとできない場合は、

自分以外の他人の意志や価値観が

必ず自分の中に存在していることになるんです。

 

“利益のために、だからやっている。”

“家族を養うために、だからやっている。”

“会社のため”、、、etc...

ヨガやってる人とかだったら、、、

“健康のため。”とか、“ダイエットのため”とか、、、

さらには、

それで何かに感化されたら、

今度は、“自分の精神成長のために。”

とか、“学びを深めるために。。”

“周りの人々のために。。。”とか、、

 

または、

“自分の居場所を確保するために。”

なんて理由づけもどんどんプラスされていく。

まだ消化できてもいないのに、

また足しにいく。。

 

、、、もう背負いきれなくない??

ってくらいに見事に足していく。笑。

 

 

何かのためにでもじゃないと、やってらんないって感じな具合に、、、

理由をつけて、自分を奮い立たせる。。。

、、、はい、私自身がハマってたことです。笑。

地に足がついてない典型的なパターンというやつですね。笑笑。

もう、それくらい重りを足枷せにしないと、

養成講座やり始めた当時は、

マジで地に足がつけなかったんだと思います!笑。

 


でも、もし、自分しかいなくて、

環境によるしがらみがなかったら、、、

 

今もそれをやっているだろうか?

 

自分しかいない環境ならば、

自分の精神性の成長なんて、いちいち気にするだろうか?

学びを深めなければ!!なんて意気込むだろうか?

人様のために!!なんて思うだろうか?

 

人それぞれ価値観は違うので、何とも言えないですが、、、。

 


多分、それらは、周りの人や環境と比べない限り発生しない思いの一種なはずです。

 


自分のためだと思ってやってることだって、案外、

それは、周りの価値観に感化されて生まれたものがほとんどである証しそのものだったりする。

 


そして、そう思っている自分を、本当の自分だと思い、

自分にそう言い聞かせては、

自分自身に嘘を塗り重ねていく。。。

 

時には、無理に自分を正当化し、

その都合のいい正義心を振り飾す。。。


、、、そうやって、

他人の本質を自分の本質の上に上書きした自分を、

本来の自分だと勘違いしてしまう。

 


どれが自分のもので、どれが他人様から仕入れてきたもなのか?

長いこと整理してないと、

ホント自分でも見事にわからなくなる。笑。

 


このように、

人間のような複雑な知能を持った生き物は、

本能によって肉体が維持される以外に、

生きる意味を見い出すための依存先が必要なのです。

 


ただ、他から仕入れてきたものは、

生きる手段を与えてくれる有意義なツールであり、

それ以上でも以下でもない。

 


依存先が家族や好きな人でもいいし、

趣味でも仕事でもボランティアでも何でもいいんです。

 

自己犠牲だって、簡単にできることではなく、とても素晴らしい。

、、、が、

それは、他から仕入れてきたものなのか?

それとも純然たる自分のものなのか?

その識別は重要だと思います。

 

でなければ、

他から仕入れてきたものに純然たる自分が振り回され続けるためだけに、

エネルギーを全て消費しかねないからです。

 

私個人としては、

たった一つでいいから、

自分の自由意志のみで構成されたものを、

ないがしろにはしないほうがいいと思いますし、

 

それがまだ見つかっていないなら、

それを見つけるためにエネルギーを先に使ったほうが、

たとえ同じ結果だったとしても、

魂が味わう満足度は違ってくると思います。

 

それは、

“自分の魂とか本質とかは、

自分で満たしたほうがなんかいい!。”

というエゴというか、、、

概念のようなものが、

私の中に巣食っているからなので(笑)、、、

 

自分の本質に対して持ってる概念が真逆の人もいるだろうし、

そこは人それぞれ違うので、、、

 

、、やっぱり、人それぞれですね。笑笑。


私の場合にたとえたら、

私の今、未来へ向けて実現したくてやっていることは、

自分の身体を自分の思い描く通りに動かしたい。

、、、いわば、“意志と行動の調和。”

みたいな感じです。

 

あとは、、、

やっぱり自分の肉体の柔軟力の可能性の限界値を延々と広げ続けて、

その領域でしか味わえない思いとか感情とか、

肉体の感覚を味わってみたい。

、、てゆう好奇心のような、

探究心のような、、

それが一番にあります。

 

あっ!もちろん、

この思いも、環境や他の価値観から与えられて、

結果、自分もその領域にいってみたい!

と突き動かされています。

 

、、、そんな感じで、

多分、環境や他人によって与えられた価値観や、

それによる理由づけとかというものは、

自分の純粋な好奇心を引き出すための布石とゆうか、

素材のようなもの。。

ただそれだけ。でいいんだと思います。

 

自分の場合、その限界値を超えるためなら、

ヨガもやりますし、思いついたトレーニング方法も、

めっちゃ痛いストレッチ(笑)も、何でもやりますし、

ゴールがそもそもないので、

自分が満足して飽きるまではこれからもやり続けてると思います。

 

、、そして、今日地球が終わるとしても、

多分やっていると思います。笑。

 

 

 

、、、ということで、

今一度、選択と行動の中に、

どれくらいの割合で、

“自分が何に囚われていてるのか?”

または、

“どれくらい自分の自由意志がその中に汲み込まれているのか?”

 

問うのも面白い発見があるかもしれない。。

、、、というお話でした。

 

 

これ以上書いたら、長くなりすぎるので、笑。

養成担当した後のお話は、

また次回書きたいと思います^ ^

 

ではでは、また次回まで(^^)

 

 

 

現実と幻。

今日は、“現実”と“幻”の世界について書きたいと思います^ ^

 

ヨガ哲学でも、

私達が生きているこの世界は“幻”(=マーヤ)である。

という定義から全てが始まっています。

 

現実と幻の境界線をどう定めるか?など、

人の持つ思想によって違うものですが、

その境界線の定め方の一つを、今日はお話ししたいと思います^ ^

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、、、ということで、

早速、今回は最初から少し小難しい話になっちゃいますが、

私達人間が、この世の事象を理解したり、言葉に置き換えるには、

その事柄を分け示す枠組みが必要となります。

それが“境界線”となります。

でも、その境界線という狭間は、観察すればするほどに、

実に曖昧なものでもあったりします。

 

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例えば、、、

正義と悪の境界線、

本音と建前の境界線、

自分と他人の境界線…etc.

 

正義と悪の線引きは、守りたいものによって変わるし、

言った言葉の一つ一つが建前なのか?本音なのか?

再確認すると、言った本人でもどちらのていで言ったかだなんて、

さらに曖昧だったりするものです。笑。

もちろん、自分と他人は違うものですが、

“共感”という感覚は、その境界線ですら曖昧にさせる。

限りなく黒に近い白と、限りなく白に近い黒の境界線など、

もはや線引きのしようがない。。。

 

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このように私達人間が、その物事を認識するために線引きした境界線は、

とても曖昧で未確実なものの一つで、

本当はあってないようなものでもあります。

 

でも、自分が、自分に線引きした枠組みの境界線を認識し観察することは、

自分が見ている世界のどこからどこまでが現実、もしくは幻なのか? 

その答えを提示してくれますし、

また、人の精神とは、

その自分が作った境界線の中から外に出ることで、

はじめて成長をするものだとも思います。

 

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自分の作った“限界”という境界線を超えること

それが、人の成長です。

現実という世界は、その境界線の外のこと指し示し、

また、とは、その境界線の中のことを言うのではないでしょうか。

 

何故なら、私達人間は、

誰しもが得た知識や情報、または自分の作った枠組みや経験に頼り、

それらに縛られて生きています。

そして、それを“現実”と呼んで疑わない、、、。

 

でも、果たして、本当にそれは“現実”と言えるのでしょうか?

人の心は見たいものを見ますし、思いたいことを思います。

不都合な現実の前では、都合のいい解釈で事実をすり替えたくもなるし、

あるいは、それに蓋をしたくもなるものです。

そうやってすり替えられた世界を、幻の世界と言いますし、

あるいは人の作った“エゴの世界”とも言うのでしょう。

 

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それをヨガのあるあるに例えて言うなら、、、

練習不足という現実を、練習以外の方法にすり替え補うことは、

幻でしかありませんよね。

練習不足は練習することでしか現実は変えられません。

 

カッコいい応用アーサナを可能にするための基礎練習、、

という地味〜な現実だって、やはり基礎を練習することでしか、

それは可能にはならないのです。

 

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もちろん、どんなものも基礎練習ほど地味なものはなければ、

面白くないと感じるものもないのかもしれません。

 

インスタ映えだって、、、

                            、、、  もちろんしません。。。(笑)。

 

でも、そもそも基礎はそのためのものではないことは、誰にだってわかる。

 

本来、地味な作業を淡々と繰り返す基礎練習とは、

=心を空っぽにするための作業であり、

                             無心になるための準備そのもの。

、、、であるはずですよね。

 

後に待ち受ける応用アーサナや新しいことを習得するための空のスペースは、

そうやって自分で作り、掴みとっていくものなのです。

 

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だから、 付け焼き刃のアーサナほど脆いものはなく、

そして、それは同時に、自分の心の脆さの象徴そのものとなる。

 

このように、自分の心に映っている世界が現実なのか?

もしくはすり替えられた幻なのか?は、

“心”の器である自分の“身体”の示す行動で分かるものです。

なので、何かにすり替えた瞬間に、

心に移る世界は全て幻と化することを、忘れないようにしましょう^ ^

 

もちろん、違うものにすり替えたり、

目の前の現実から逃げることはダメなことではありません。

何故なら、心とは、そもそも揺れ動くものです。

だから、現実で痛い思いをして、幻の中に揺れ動くことは、

しごく自然なことで、決しては悪いことではありません。

大切なのは、

痛みのない幻の世界は人を成長させやしない。

ということを知ることです。

 

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私達は、

自分の作った既成の枠組みや“理想”という小さな幻の世界と、

その外側に広がる“今”という大きな現実の世界の両方を行き来することで、

少しずつ自分の作った枠組みを押し広げて、

成長をする生き物です。

 

理想の世界こそ広く、

現実は窮屈なものだと思う人も中にはいるかもしれませんが、

実際は逆で、

人の認識の中に収まることのできる理想郷ほど小さいものはなく、

現実というこの宇宙ほど広いものはないのが事実です。

 

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そして、そうやって、一つのことを突き詰めながら成長をしていくと、

いつか必ず矛盾点や壁に出会います。

その“矛盾”と“限界”こそが、

幻の世界の中にしか存在しないものの象徴ではありますが、

それは同時に、自分の作った“限界”の外に出るタイミングでもあることを示唆しています。

“現実”という私達の生きるこの壮大な宇宙には、

限界や矛盾などといったものは、どこにも存在はしませんから。

 

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人の魂は、束縛を嫌うものです。

枠組みの中に押し込めようとするほどに、その枠組みの外に出たくなる。

外の世界には、その先には果たして、一体何があるのだろうか。。。

という思いは、自分の意思とは関係なく、湧いてくる。

それを好奇心と言います。

そして、その好奇心こそが、人の成長の糧になる素粒子のようなものだと思います。

 

なので、もし、

歳を重ねていくほどに、逆に好奇心は減っていってるなぁ〜。

という矛盾を感じたら、このお話を思い起こしてみてください^ ^

もしかしたら、何かのヒントになるかもしれません^_^

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原点に繋ぐ、ということ。

私達は何か行為をする時、そこには、必ず思いが存在します。

「〜をしたい。」という思いや願望は行動を生みます。

当たり前すぎることですが、それが今の人間社会を形作っています。

どんなものも遡れば、はじめは、形なき一つの思いに帰している。

 

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だから、ヨガも最初にあったのは、

呼吸法や、アーサナ・流派などの形を有したものではなく、

形無きたった一つの思いであったはずです。

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    「より良い世界に」─────

という一つの思いからはそれに伴う行動が生まれます。

その行動は、やがて人々の目に留まり、しだいに共感者を得ていく。

1人の人間が生んだ形なき思いに集う共感者。”

という光景は、師と弟子の在り方に近いのかもしれません。

そして、長い時間を経て大きな思想へと昇華した思いは、

“教え”となって沢山の人へ広まっていくと、

必然的に統率が必要とされるようになります。

“定め”や“戒律”などの規律体系の出来上がりです。

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たったひとつの思いから生まれた行為が、

ここまで大きな体系になるのに、一体どれだけの時間と労力を有し、

どれだけ、同じ工程を繰り返し行ったのでしょうか、、、?

もちろん、ヨガもその過程を辿った知識体系のうちのひとつです。

まさにチリツモというやつですね。

 

────塵も積もれば山となる。──── 

 

塵=小さな思いから生まれた一つ一つの行為。

その塵が数えきれないほど繰り返されることで、

ひとつの知識体系という“山”がはじめて出来上がります。

今日、私達が学んでいる様々な既存の学問には、

こんな風に、歴史の本質そのものとも言える見えない背景が必ず存在します。

 

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なのでその物事の本質に触れたくば、

その始まりのきっかけとなった

“最初にあった一つの思いは何だったのだろうか?”と、

この問いに自ら気付き、ぶつかって、思いを馳せることができて、

はじめて本質と向き合う準備が出来たことになるのだと思います。

文字通り、原点に帰るということです。

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相手を理解するためには、まず相手の立場に立ってみないことには、わかりっこない。

というのと同じですね。

自分以外の者の立場に立つことは、固定概念という枠組みを壊し、

客観的に物事を捉えられる観察眼と、視野の広さを提供してくれます。

物事の本質である全体像を見るためには、

視野の広さを持つことはどうしても必要最低条件となりますから。

ヨガでも、「群盲象をなでる」という寓話になぞらえて

本質を知る方法を享受している資格スクールは多いのではないでしょうか。

 

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物事の一部分だけを理解して、全て理解したと

錯覚してしまうことほど怖いものはないです。

かつての自分もこれでした。

既成の概念に囚われ、自分の作った枠組みと思い込みの中に生きていた時の自分です。

そこから抜け出し、

「そもそものはじまりとなった思いは、果たして何だったのだろうか?」

というこの問いへの気付きを可能にしてくれたのが、

同じことを幾度となく“繰り返す”という行為でした。

 

どんな達人であれ、同じ工程を繰り返し行うという作業は決して怠りません。 

それは、“繰り返す”という行為そのものが、“基礎”の本質であるからだと思います。

幾度となく同じ工程を繰り返す。”

という行為は、

この世界に“基礎”という概念を確立させた原点と言えるでしょう。

 

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“基礎”とは、“繰り返し行う。”ことを指し示します。

逆に言い換えれば、どんなに簡単に出来てしまうことでも、

繰り返し行わない時点で、たとえ出来ていたとしても、

それは“基礎”とは言わないのです。

 

では、何故基礎がそんなに大切なのでしょうか、、、?

完璧に出来ていることでも、何故、繰り返し行うことを、

達人であればあるほどに辞めないのでしょうか?

それは、“繰り返す。”という行為が、

心に手綱を引く方法であるからです。

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「自身の心に手綱を引き、コントロールしましょう。」

↑これもよく聞くヨガの教えの一つですよね。

分かりやすく言いかえると、

「=鍛錬で身に付けた力をコントロールするのは、心の役割である」

ということです。

知識や情報、スキルには、力があります。

どんな力かというと、、、

それは、良い悪いを問わず、“人の心を変える力”です。

知識や情報は、持っているというだけで人々からもてはやされ、

脚光を浴びることができます。

難易度の高いスキルを習得したならば、さらに人々からの賞賛を受ける。

それは、他人に自分の存在意義が認められたという喜びや達成感、

さらなる高みへ挑む勇気を与えてくれると同時に、

その力に溺れ、奢り、優越感という快楽に支配されるリスクを背負うことにもなります。

 

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最初は、ただ“好き”という純粋な思いではじめたことでも、

いつのまにか、富と引き換えでなければ、

たとえどんなに好きなことだとしてもやらなくなってしまう。

そうして気が付けば、成し遂げたいと思う夢とは一番遠い場所にいた、、、。

なんていうのがいい例ですよね。

 

このように、光あるところには必ず闇が存在します。

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奢りや傲慢さ、慢心、過信といったものは、

脚光と賞賛の眩ゆいきらびやかな世界の裏に必ずある闇の側面です。

これらは因果関係にあり、切っても切り離せるものではありません。

 

─────力にはそれ相応の責任が伴う。─────

 

そして、その力の制御は、心でしかできません。

ヨガも、師が弟子にアーサナを与える時の基準は、

アーサナの出来栄えよりも、

弟子がそれを制御できる心の準備ができているかどうかで、

与えるか否かが決まるものだと思います。

だから、心の鍛錬はどうしたって必要になるのです。

 

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その心を鍛錬する方法が、

同じことを“繰り返す”という行いであり、=“基礎”を怠らないことなのです。

幾度となく初心に帰るという基礎は、

暴走しそうになる力を原点に繋ぐことができる。

それが手綱を引くということですよね。

そして、力を繋げることができる場所はそもそも原点にしか存在しないものでもあります。

なので、得た知識や情報、スキルなどの力をどこに繋げばいいのか分からなくなったら、

自分の始まりのきっかけとなった思いは何だったのか?

を思い起こしてみましょう。

そこが、得た力を唯一繋げられる場所の在り処であるはずですから。

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ヨガは、この世にたくさん存在する“始まりへ帰るための方法論”の一つです。

だから、ゴールはあくまで“=我に帰る。”ということを忘れないようにしましょう^ ^

 

 

 

 

 

心と身体は、人と人。

光と影は惹かれ合います。

互いにいるだけで引き立てあえるからです。

どんなに眩ゆく光を放っていても、影がなければ、

光は自分が光であることにすら気付けません。

 

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“光は光のままに、影は影のままに。”

互いにただそこにいるだけで、自分の存在が定義される関係、、、

とてもベストな関係の在り方の一つですよね。

 

では、この関係が人と人の場合だったらどんな感じなのでしょうか?

 

それは、

“あなたはあなたのままに。わたしはわたしのままに。”

ということになります。

もっと分かりやすく言い換えると、

= “あなたは、あなたのままでいてね。

わたしは、わたしのままでいますから。”

という関係。

お互いに、ありのままの自分でいることをもっとも楽で心地良いと感じる関係性。

 

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そこには、相手の在り方の否定や、自分の一方的な価値観の押し付けもない。

ただ、互いのそのままの全てを尊重し、認め合える関係。

これが、家族や恋人、友人や仲間に関係なく、

人と人の繋がり方のベストな形なのでしょう。

そして、ありのままの自分で生きている人ほど、

相手のそのままを受け入れられるその器も大きいものです。

 

でも、そんな簡単に割り切れるほど、人は強くはない、

のもまた事実です。

自分の立場を守るためなら、相手を攻めることだってしてしまう。

自分の利を得るためなら、相手を欺くことだってする。

 

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特に、競争社会に携わっていたら、いつのまにか、

自分に利や得になることが正義で、不利や損失は悪。

という価値観に自分の選択の全てを支配されてしまう人も珍しくはないと思います。

自分の人生を生きる主導権を手放した瞬間ですね。

 

─────人はそんなに強くはない。

 

たとえそれが間違いとわかっていても止まらない自分がいて、

今やっていることが、本当のやりたかったこととは

真逆だと分かっていても辞められない自分もまたそこにいる。

それも人間の一面です。

 

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自分もそうでした。

受け入れ難い事実の前では、

自分がこうも周りが見えなくなってしまうものなのか、、、⁈と

思うほどバカになる時もある。

 

そして、己の器の小ささと弱さを目の当たりにして、

やり場のない怒りだけが込み上げてくる。

どこにぶつけていいか分からない感情の蓄積はやがて痛みを生み、

その痛みをもたらしたのは他人ではなく、

結局自分であると悟った時には、もう手遅れで、

自分のバカさにただ悔いることしかできない。。。

 

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大なり小なりではありますが、

そんな思いを人生で一度は経験している人は多いのではないでしょうか。

 

どんな世界に生きていても、

自分の心が安らぐ場所を求めるのは人の本能のようなものだと思います。

たとえ、それが相手を否定したり、傷付けることになったとしても、

人は、自分の居場所が無いことには耐えられない。

 

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生きてる間は、自分の存在が定義される居場所が必要なのです。

だから、相手を否定することによって自分を肯定し、その中に生きる。

というのも、自分の居場所を確保するための方法の一つなのです。

 

中には、そうやって他者の否定の上に作り上げた自分の世界観を、

“理想の世界”だと錯覚する人もいるでしょう。

外から見たその世界がまるで、

鍵のかかっていない小さな鳥籠であることには、

本人は滅多に気付かないものですから。

 

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でも、他者の犠牲の上に築かれた個人の平安など存在するでしょうか?

犠牲となった側からしたら、相手が平和であるだけで、

それが彼らにとっては、暴力そのものであるはずです。

これでは、“平安”という価値観そのものが破綻してしまっていますよね。

 

今このブログを読んで下さっている方の中にも、

過去に、相手の居場所を奪った経験を持つの人もいるだろうし、

また、奪われたことがある人もいると思います。

もちろん、両方経験した人もいるとは思いますが、

どちらにせよ、、、

奪った側も奪われた側も、

痛みを背負うことには変わりはなかったはずです。

 

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そうやって蓄積された痛みは、人の身体をいとも簡単に病の中へと引きづり下ろす。

怒りや憎しみは、病に犯されていく心の痛みを知らせるための道具にしか過ぎません。

 

人の「身体」はその対である「心」に呼応するように出来ていますから。

だから、ヨガでも、はじめに、

「身体の原因は心に探すものであり、またその逆も然り。」

と、ちゃんと教わります。

心の声を否定した身体の鍛錬など、暴力でしかない。

 

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「心」と「身体」。

互いの声を否定することなく尊重する。

それが心と身体の繋ぎ方です。

はじめにあった、

“あなたは、あなたのままでいてね。

わたしは、わたしのままでいますから。”

という関係と全く一緒ですよね。

心身を繋ぐことは、人と人の繋ぎ方をも同時に教えてくれるのです。

 

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なので、もし、自分の作った鳥籠に入ってるかも。

と思い当たる節がある人は、まず一歩外に出てみましょう^ ^

狭い鳥籠の中では、器も育たない。

出る方法は簡単です。

“存在の否定”を辞めることです。

 

もちろん、一歩外に出た瞬間に仕返しに合うかもしれないし、

痛い思いをするかもしれません。

その痛みを知ったところで、強くなれるわけでもない。

痛みは乗り越えることでしか強くはなりませんが、

他人の痛みを分かち合う優しさを提供してくれます。

そして、それが自分の人生の主導権を握るということであり、

“生きている証としての実感”そのものなのです。

 

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檻の中にずっといるよりかは、面白いことがきっと待っていると思います^ ^

 

 

 

 

 

 

自分の見つけ方は人それぞれ。

“学ぶ”とは、何をすることなのでしょうか?

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学生の頃、

「個性豊かに。人それぞれ十人十色だよ。」

と笑顔で説く周りの大人達や先生の言葉とは裏腹に、

彼らの提供する“学び”は、十人を一色に染めるものが多く、

子供ながらにその矛盾がとても疑問でもありました。

 

好きな食べ物も選ぶ服も好みはまるで違うのに、

何故、同じ服を着させ、

同じ価値観を共有することに重きを置くのか。。?

“和”の心に必要なのは思いやりや優しさの類であって、

決して同じ価値観の中に生きることではないはずなのに…。

とか思ったりもしてました。

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“学ぶ”とは一体何なのでしょう?

 

あらかじめ用意された答えを解くことが学びなのか?

 

──────それとも、

調べれば分かることを時間と労力を費やして暗記することが勉強なのか、、、?

 

今や答えのある問題を解く能力やコピー能力は、

コンピュータの代名詞と言っても過言ではありません。

 

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それでも私達人間が、“学ぶ”ことに価値を置くのは、

それが自分の可能性を引き出す術であることを、

人は皆、心の奥底で無意識に確信しているからなのでしょう。

 

学ぶが故に可能性は生まれ、

その可能性に限りがないが故にまた追求したくなるものです。

 

学ぶ”とは、、、

自分の好奇心のままに何かを追求したり、

既存の概念に囚われず、まだ誰も取り組んだことのない新しいことを探求したり。。。

 

もしかしたら、

   ──そこには答えなんてないのかもしれない。──

                                          それでも尽きない好奇心…。

、、、そういったことが、

本来の“学ぶ”ということなのではないでしょうか…⁈

 

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だから、

世の中で自分の可能性を閉ざした生き方を選んだ大人が、

まだ自由な可能性に満ち溢れている子供を

教育をしている姿を目にすると、

めっっっちゃ変っ!って思ってしまいます。笑。

 

可能性が無限大に在るということは、

答えが無限大に在るということを示唆していますし、

また、答えが無限大に在るということは、

“=答えなんて最初から無い。”

                    ──────ということでもあります。

あらかじめ答えの用意された人生や世界なんてどこにも存在しないのはそのためです。

 

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だから、生きていて、

何かの壁にブチ当たった時に必要とされるのは、

答えを解く能力以上に、

それを乗り越えようとする信念や意志の力であるはずです。

その信念とは

“=自分を信じる力”と言い換えることもできます。

それは、何かに真っ直ぐこだわることとかではなく、

 

  ──“自分を信じる”とは、“=自分と向き合う”──

 

ということなんだと思います。

 

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ヨガをしていたら、一度は聞いたことはないでしょうか?

 “自分と向き合いましょう。

                                 というこの言葉。──────

もちろん、伝える語り手によって、色んな捉え方が出来ますが、

その根本に共通するのは

“自分を信じる”ということであるはずです。

ヨガの八支則に出てくるイシュワラプラニダーナの在り方がこれですよね。

 

自分を信じる力は、他の人の確立した知識や価値観に振り回されたり、

自分を見失わないようにするための土台を作る基盤となります。

他人の確立した知識や情報は、

自分が何かを学ぶ時の素材でしかありませんし、

また、それらに、

自分の価値を左右されてもいけないはずです。

あくまでも、自分の力で考え行うことが基本であるはずなのです。

なので何かに迷ったり、進路に困ったら

自分と向き合ってみることをオススメします。

 

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そして、“自分と向き合う”方法は、とてもシンプルでもあります。

それは、誰でも備わっている感覚のひとつである“直感”を使うことを指しています。

 

自分は、何が好きで嫌いなのか?

あるいは、何が得意で何が苦手なのか?

別に誰かに教わったわけでもないけど、理屈なしに何となく感覚でわかること。。。

「あっ、これ私好きかも‼︎

    あっ、でもこれは、

    多分どんだけやっても私向いてないね〜。

                …こりゃ身に付かんやつやわ( ̄▽ ̄;)」

 

、、、みたいな感じに。笑。

考えなくても、ただなんとなく分かること。

当たり前ですが、その直感が自分を知るという感覚ですよね。

その直感は磨けば磨くほどに、迷いなき自己を確立させていきます。

人は、自分を知った分だけ迷いがなくなり、

自分を信じれるようになっていくものですから。

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なので、よく迷ったり自分を信じれない人というは、

多分この感覚を長い間使うことを忘れちゃってるだけなんだと思います。

小さい頃は当たり前のように使っていたこの“直感”という自分を知る能力。

外で元気よく遊ぶ小さい子供を見ていると、

ほとんどの子供達が

この感覚に身を委ね生きていることが分かると思います。

だから、彼らの目には迷いはなく、

                          世界が真っ直ぐに映る。──────


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そして、それは、

私もそうでしたし、、、

今このブログを読んで下さっている皆さまも、

子供の頃はそうであったはずです。──────

 

もちろん、

今も変わらずその直感に身を委ね生きている人も沢山いるとは思いますが、

久しく使ってないな〜。と思うことがあったなら、

是非、使ってみることをオススメします。

 

得意不得意も、好き嫌いも人それぞれなら、

その向き合い方だって、それぞれちゃんと在って、

そして、それは自分にしか見つけられないものなんです。

だから、

他の人と同じことやってても意味なんてないんです。

 

自分には、自分にしかできないことが必ずあるんだ。

 

ということが、この世界の“常識”の一つであることを

忘れないようにしましょう。

それは、自分の在り方をこの世界に表現する時、

間違いなく大きな手助けとなってくれるはずです。

 

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